暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

客観的観察なんて

2012-06-19 17:14:26 | Weblog

 客観的観察なんて、存在しないのだね。

 

 『北欧の人達が、幸福度が高いのは、~(省略)』とか言っている人がいるが。本当は、それが真実かどうかは分からないのだよね。

 外国人が、日本のホームレスに取材をしても、日本のホームレスの人達の本当に感じている不幸について、ほとんど実体的感覚として、理解出来ないのと同じ事で。

 

 目に見えるすべての事は、自分の認識が反映しているだけの事なのである。

 ある作家が書いていました。『カンボジアに行って。「ここの人達は幸福だね」と言うと。現地ガイドの人は言った。「それはあなたが幸福だからです。彼らは全然幸せではありません。川の増水にも常に怯えて生活しています」』と。

 アジアの発展途上国の人達の事を見て。『彼らには、日本人にない笑顔がある』という意見に反対している人がいます。でも、多分、日本から訪れたテレビ局等のスタッフにはそう見えるのでしょう。その意見に反対している人は言います。『彼らは、親に農作業で、学校にも行けず、こき使われるのが嫌で、都市部へ逃げてきた、ホームレスの子どもです。彼らが、塾に追われている日本の子ども達より、幸福だと言ったら、彼らの親はどう思うであろうか』と。

 

 認識なんて、当てにならない。

 

 ここまで書いてきて。私はなぜこんなことを書いてしまうのだろうかと考えた。

 

『日本人は不幸だ』と主張する自称知識人の人達が大勢いる。でも、それは、『ただ、あなたが不幸を感じているからです』だけのせいではないのか。

 その人達が、『日本人は不幸だ』という客観的とされるデータについて色々言う。でも、そんな事は本当の理由にはならない。「どんな不幸な目にあっても、自分は幸福な人間である事を選ぶ」。それが本当の人としての道ではないかと思う。

 条件付きの愛が、本当の愛ではないように。条件付きの幸福も本当の幸福ではない。

 「何があっても、幸福な人間であることを選ぶ」のか。それとも、「あれが達成、実現出来ていないから、私は不幸なのである」という道を選ぶのか。そのどちらを選ぶかの、選択ではないのか。

 

 バブル期に作られた、槇原さんの『どんなときも』の歌詞は、『昔は良かったねと。いつも口にしながら、生きていくのは、本当に嫌な事だから』である。

 自分の不幸を嘆きながら、人生を生きる事を選択するのか。それとも、自分の幸福に感謝しながら、生きるのか。その二つの道があると思う。

 愚痴ばっかり言いながら、生きる人とは一緒に生きたくありません。ただ、それだけの話だと思う。

 

 結局、客観的事実は関係なく。不満だらけの人は口実を挙げて、不満を並べるだけの事である。不満には意味がないし。客観的事実は、ただの、自己認識の口実に過ぎないのである。

 

 本当はもっと怒っても良いのかも知れない。「なんで、そんなに、恵まれた状況なのに、あなたは、不幸を感じているの?」と。

 誰だって、多少の問題は抱えている。当たり前の事である。男性には男性なりの悩みがあり、女性には女性なりの悩みがある。完全に何の問題も抱えていない人なんて、存在しない。金持ちには金持ちなりの悩みがあり、貧乏人には貧乏人なりの悩みがあるのである。それに、自分には自分の人生を生きる事しか出来ない。今ある条件の最大限の努力をすること、努力出来ないなら出来ないなりの、その時点で、最善と思われる選択を、誠実に選択していく事しか、一人の人間としては、出来ない。麻薬を吸った所で、問題は解決しない事は、大抵の人が知っている。今までの人生と自己が全部チャラ(取り消し)になるような、選択なんて、実現出来ないなんて事は、普通の人は知っている。ただ、その時点で、最善と思われる選択をし続けるしか、ないのである。そんな事は、“当たり前”の事だから。

 

 嫌だと思って、外国に逃げても、外国なりの人生、問題がある。そんな事は“当たり前”の事だから。

 逃げても良いのだ。でも、“認識する自己”からは逃れる事が出来ない訳で。

 

 『私が変われば、世界が変わる』。正確には、「私が変われば、私が“認識する”世界が変わる」だけれども。不幸を、“世界”のせいにしていても、意味がない。不幸は、“認識するあなた”に問題がある訳で。

 

 バーシャルは言う。『社会とあなたと何の関係があるのですか』と。

 世界が、あなたに不幸を与えようとしていても。あなたは幸福である事を選ぶ。それが、本当の人としての道ではないかと思う。

 

 『バーシャルの言っている事は、レベルが低い』と言っている人達がいることは知っています。でも、“幸福になる事”、自分を“幸福な人間にさせる事”は、決して、レベルの低い事ではないと思う。自分を“幸福な人間であること”にさせる事は、とても重要な人生の仕事だと思う。

 

 『NOと言える日本』という本が昔売れていました。でも、人に対して、『NO』を言えない人達が大勢います。なぜか。その人達の思考の中で、『相手から、嫌われたら、困る』という思考があるからである。

 ある種の矛盾と感じる人もいるのかも知れないが。人間関係で、幸福を感じられるような人間にする方法は、「私を嫌いになる人もいる」という認識を持つことにあると思う。「すべての人から好かれる事は出来ない」と。それでないと、“すべての人から好かれよう”として、右往左往する事になるから、と言う事で。大体、人間というのは、元々、「すべての人、存在から、好かれるようには出来ていない」ということで。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 倫理・道徳へ
にほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« そりゃ、新聞読まない訳だよ | トップ | 宗教というものを »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事