オオカミ再導入に関しての私見その1です。
オオカミがシカやイノシシの個体数を調節するというのがオオカミ再導入に賛成する人の根拠です。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか?僕が今年の冬に長野で取材したときには、そうとも言えない事例が多く見つかりました。ここでは、オオカミが存在していた江戸時代の長野県を例に考えてみます。長野県では、1688以前~1789年に長さ5km以上に及ぶ大規模なシシ垣が多数作られました。たとえば、10kmにも及ぶ戸隠のシシ土手、16kmもある木曽山脈南東麗の猪垣、鉢伏連峰西麓の猪土手にいたっては長さ28kmにも及んでいます。
シシ垣とは、山と耕作地の間に作られた石垣などのことです。物理的な障害で動物を遮断しようという点で、電気柵の原型ともいえるかもしれません。
シシ垣というのは、ほころんでくると、そこから動物が侵入してきますので、維持管理が大切です。作るにも維持するにも手間のかかるシシ垣、それも大規模なものが多数作られた背景にはそれだけ鳥獣害が深刻であったと見てとれます。特にシシ垣が多く作られたのが18世紀で、この時期はほぼ長野県全土で深刻な獣害があったということが窺えます。
また、シシ垣にはイノシシやシカの侵入を防ぐだけでなく、オオカミの侵入を防ぐ意図もあったようです。
この頃のシカの頭数はおそらく現在とほぼ変わらなかったと推測されています。むしろ、過去にシカが手を付けなかった高山帯のお花畑が現在荒らされていることを鑑みると、現在のほうが過去より多いかもしれません。この時期は当然、オオカミも健在だったわけですが、シカ、イノシシなどは普通に田畑を荒らしまわっていたわけですね。これを考えると、オオカミがいたところで鳥獣害を抑え込めるか?という疑問が生まれます。
長野県のシカを例にすると、地域差はありますが、江戸期から明治初期までは非常に多くの個体数が存在していたようです。長野県のシカの推定個体数の推移はこれ↓を参照してください。
この図は長野県林業総合センターの「ニホンジカの食害による森林被害の実態と防除技術の開発」より引用。
ここで見たように、シカは1800年代末から1900年代初期にかけて数を減らしていきました。こうなったのも、捕獲圧を含む人間の影響が大きいようです。明治17年(1884年)には長野県だけで1万7千丁以上の猟銃が保有されており、明治24年の全国統計では、全国で約8万8千6百人の狩猟者が登録されていました。それだけ獲物となるシカを含む大型動物がいたということの傍証です。ただし、長野県では明治27年(1894年)には大分少なくなっていた様です。諏訪大社の祭事で神前へ捧げるシカ12頭はこの年(明治27年)から塩漬けのシカ肉に変わっています。この時期は長野県でオオカミはほぼ絶滅しています。オオカミがシカなどの急激な減少にかかわっていたとは思えません。
その後、江戸時代に全県に生息していたシカは、ごく一部の地域のみに生息するまで減少し、一時(1923年)は国が保護するまで至りました。それから1980年代までは見かけることも非常にまれな動物でした。信州大学での研究ノートには一日に1頭見かければラッキーであったと書かれていたようです。
それから、数年ごとに個体数が2倍に増えて、現在被害を及ぼしています。結局のところ、シカの個体数増減に大きく影響を与えていたのは捕獲圧をはじめとする人間の影響だったわけです。
参考文献
小山泰弘(2008)長野県におけるニホンジカの盛衰 信濃第60巻第7号
小山泰弘・岡田充弘・山内仁人(2010) ニホンジカの食害による森林被害の実態と防除技術の開発
オオカミがシカやイノシシの個体数を調節するというのがオオカミ再導入に賛成する人の根拠です。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか?僕が今年の冬に長野で取材したときには、そうとも言えない事例が多く見つかりました。ここでは、オオカミが存在していた江戸時代の長野県を例に考えてみます。長野県では、1688以前~1789年に長さ5km以上に及ぶ大規模なシシ垣が多数作られました。たとえば、10kmにも及ぶ戸隠のシシ土手、16kmもある木曽山脈南東麗の猪垣、鉢伏連峰西麓の猪土手にいたっては長さ28kmにも及んでいます。
シシ垣とは、山と耕作地の間に作られた石垣などのことです。物理的な障害で動物を遮断しようという点で、電気柵の原型ともいえるかもしれません。
シシ垣というのは、ほころんでくると、そこから動物が侵入してきますので、維持管理が大切です。作るにも維持するにも手間のかかるシシ垣、それも大規模なものが多数作られた背景にはそれだけ鳥獣害が深刻であったと見てとれます。特にシシ垣が多く作られたのが18世紀で、この時期はほぼ長野県全土で深刻な獣害があったということが窺えます。
また、シシ垣にはイノシシやシカの侵入を防ぐだけでなく、オオカミの侵入を防ぐ意図もあったようです。
この頃のシカの頭数はおそらく現在とほぼ変わらなかったと推測されています。むしろ、過去にシカが手を付けなかった高山帯のお花畑が現在荒らされていることを鑑みると、現在のほうが過去より多いかもしれません。この時期は当然、オオカミも健在だったわけですが、シカ、イノシシなどは普通に田畑を荒らしまわっていたわけですね。これを考えると、オオカミがいたところで鳥獣害を抑え込めるか?という疑問が生まれます。
長野県のシカを例にすると、地域差はありますが、江戸期から明治初期までは非常に多くの個体数が存在していたようです。長野県のシカの推定個体数の推移はこれ↓を参照してください。
この図は長野県林業総合センターの「ニホンジカの食害による森林被害の実態と防除技術の開発」より引用。
ここで見たように、シカは1800年代末から1900年代初期にかけて数を減らしていきました。こうなったのも、捕獲圧を含む人間の影響が大きいようです。明治17年(1884年)には長野県だけで1万7千丁以上の猟銃が保有されており、明治24年の全国統計では、全国で約8万8千6百人の狩猟者が登録されていました。それだけ獲物となるシカを含む大型動物がいたということの傍証です。ただし、長野県では明治27年(1894年)には大分少なくなっていた様です。諏訪大社の祭事で神前へ捧げるシカ12頭はこの年(明治27年)から塩漬けのシカ肉に変わっています。この時期は長野県でオオカミはほぼ絶滅しています。オオカミがシカなどの急激な減少にかかわっていたとは思えません。
その後、江戸時代に全県に生息していたシカは、ごく一部の地域のみに生息するまで減少し、一時(1923年)は国が保護するまで至りました。それから1980年代までは見かけることも非常にまれな動物でした。信州大学での研究ノートには一日に1頭見かければラッキーであったと書かれていたようです。
それから、数年ごとに個体数が2倍に増えて、現在被害を及ぼしています。結局のところ、シカの個体数増減に大きく影響を与えていたのは捕獲圧をはじめとする人間の影響だったわけです。
参考文献
小山泰弘(2008)長野県におけるニホンジカの盛衰 信濃第60巻第7号
小山泰弘・岡田充弘・山内仁人(2010) ニホンジカの食害による森林被害の実態と防除技術の開発
昨日も鹿柵を作りに行ったばかりです。(ブログ参照)
オオカミ導入に関してとても興味があります。
今後も参考にさせて頂きたいので続編を期待します。
梨さんは獣害問題の専門家なのでしょうか?