ペドロランド日記

スペインの国際村「ペドロランド」を中心にフランスとイギリスに発信地を移しながら、日々の出来事を綴っています。

ミラベルの使いみち

2011-07-28 13:19:41 | フランスの生活
今日は久々の






昨日、お隣りのパトリックからミラベルを大量にもらった。我が家にも裏庭にミラベルの木が1本あるのを知らないらしい。

ミラベルは、西洋スモモの一種で、フランスのロレーヌ地方が産地として有名であるということだ。ロレーヌ地方では、8月にはミラベル祭りも行われる。ドイツやイタリアでもよく知られている果物らしいが、イギリス人には知らない人も多く、ウェートローズ(イギリスのスーパーチェーン)で1度見かけたことがあるだけ。

これまで、我が家のミラベルは1日10個ずつくらいつまんで食べていたが、このペースでは、お隣がくれたミラベルを食べ終わるには数週間かかってしまう。我が家のミラベルは、すでに木についた状態で腐り始めてきた。

そこで、この大量のミラベルをいかに処理すべきか、インターネットで調査してみる。一度に大量に取れすぎるのは、よく知られたミラベルの問題点のようで(木自体がそれほど大きくないのに、大量の実が一度に実るため、枝が折れたりする危険性があるらしい)、「大量のミラベルを処理するには?」という質問がたくさん出てきた。また、収穫に毎年大きな差があるのも、共通しているようだ。4年くらい前に、反対側のお隣からミラベルをもらったことがあったが、一昨年は我が家でも不作で、ほとんどミラベルは獲れなかった。

やっぱり、一度に大量に処分するのに理想的なのは、ジャムのようだ。でも、我が家では、週に1度マーマレードをトーストに塗って食べるくらいで、ジャムはほとんど食べない。あげる人もいないし、せっかく作っても、食べずに終わるのが明らかだ。

市販のパイ生地を使って簡単に作れるタルトのレシピーを見つけたので、これで500グラムくらいは処分できそうだ。でも、タルト型とパイ生地を買わないといけない。買い物に行くのは来週になるので、その前に種をとって、冷凍しておこう。

ミラベルブランディーとか、ミラベルのオー・ド・ヴィーというのも有名らしいが、自家蒸留するところまで、手をかける気にはならないし、蒸留酒キットも散財になる。

ミラベルのラム酒漬けというのもあるらしい。この利点は、種を取らないでいいので楽だし、漬けた後、種はアーモンドのようになっておいしい(ということは種も食べられるのか?)ということだった。

そのほか、デザートとしては、ミラベル・クランブル、ミラベルのコンポートなどがありそうだが、まだレシピーが見つからない。それに、来週ミラベルタルトを作ったら、2人で1週間くらいはこれを食べ続けることになりそうだ。やはり、パトリックの提案どおり、とりあえず、種を取って冷凍するというのが得策のようである。

いただきものはありがたいが、やっぱりまったくのただということはありえない。手間や金(調理の燃料を含む)がかかる。無駄にしないようにと思うと、頭が痛いし、無駄にすると、罪悪感がわく。お隣のパトリックが我が家にくれたのは、彼の思いついた解決策の一つだったのかもしれない。

Never Let Me Go by Kazuo Ishiguro

2011-07-10 16:45:54 | 
今日のフランス・ドルドーニュ地方の天気はのち



これまで、本の感想をブログで書いたことはなかったが、最近友人たちの書評を彼らのブログで読んで、久々に読書感想文なるものを書いてみたいと思っていたところだった。

この本と出会いは運命的にも思えるものだった。日本のネット友達がメールの中で、いろいろと考えさせられたと書いていたので、心に留めていたら、その後、たまたまスペインに来ていた夫の義妹がこの本をイギリスから持ってきて読んでいたのだが、「30ページ読んだが、全然はかどらない。もし興味があるなら、あげる」と言って、譲り受けることになった。

結論から言うと、技術的に優れており、ミステリーとしても楽しめ、社会的・倫理的・哲学的・宗教的な問題を投げかけていて、非常に興味深い本だった。最初の部分は退屈に思えるかもしれないが、ここを乗り切って読むだけの価値は十分ある。

このブログには「続きを読む」という機能がないようなので、ここから先はネタバレがありますが、気にしない方だけ読んでください。

まず、技術的な面で、とてもよく書けている。語り手の主人公とその友人ルースなど登場人物の微妙な感情と性格が、語り手の目を通して非常に詳細に繊細に描かれている。これは後に述べるように、物語の展開にとって、非常に重要となってくる。

ここでは通常の世界とは隔離された非常に特殊な世界が描かれているわけであるが、それが、登場人物の感情や性格同様、やはり詳細に丁寧に描かれている。ハリー・ポッターを読んでいるような気分になった。ハリー・ポッター同様、詳細がよく描かれているために、読者をその独特の世界にどっぷりと浸らせることができるわけである。マグル(魔法使いが普通の人間を指す言葉)に対して、ここではnormalという言葉が使われているように、普通とは異なる世界が繰り広げられているという点で非常に似ており、それは、一部で交錯するものの、ほとんどは交わることがない世界である。もちろん、ハリー・ポッターの魔法の世界が、普通の人より優れた能力を持っているという意味で、普通でないのに対して、この世界は、普通の人間より劣っているという点で、とても悲しいのであるが。

ヘールシャムは、まるでホグワーツ(魔法学校)のようである。寄宿舎学校の様式に基づいている点でも似ているが、SaleやExchangeと言った独特な行事・制度があるのも、ホグワーツのよう。義妹が「孤児院だかなんだかわからないところで、どうでもいいような日常のことが細かく書かれているだけで、つまらない」と言っていたところでも、興味深く読むことができた理由の一つのは、ホグワーツとの比較を楽しめたことであろう(もう一つの理由は、重要な秘密を最初からわたしは知っていて、逆にそのヒントがどこに隠されているのかを見つけることだった)。

特有の言葉と言えば、"complete"という言葉も独特である。通常、他動詞として使われ、自動詞としての用法はないようだ。ハリー・ポッターにも特殊な動詞はよく登場する。ここでは、"complete"という言葉は、"die"の代わりに使われているようで、「死ぬ」ということのようであるが、"complete"という言葉を使っているところに、ここで描かれている人たちの唯一の生きる目的が臓器提供であるということを表している。つまり、死ぬということは、ただ単に寿命を「全うする」というだけでなく、目的を「完了する」ということなのだろう。特に、死ぬことにより、生きているうちにはできなかった残りの臓器の提供が可能になるわけであり、死ぬことによって、すべての目的が完了するということになるわけだ。また、トミーがクリッシーの死について話す場面で、「2回目の臓器提供で"complete"するようではだめだ」というようなことを言っている。ルースはこの発言に同意していなかったが、このようなトミーの考えかたを見ても、4回目の臓器提供者に払われる尊敬の念と言った点でも、こうした人たちには、臓器提供が自分の生まれてきた目的であり、仕事であるという意識が根付いているに違いない。

このように自分たちの生きる目的をはっきりと意識している人々でも、愛には、その目的、つまり死を延ばすだけの価値があると信じているのは、とても興味深いことであり、心を打たれるほど悲しいことだ。

詳細を丁寧に描くことで、独特の世界がいかにも実在するかのごとくに、読者に信じさせることができている。ハリー・ポッターを読んでいたときも、いかにも魔法の世界が実在するかのごとく、「これは魔法の世界ではどうなのだろう?」などと、物語を離れて、いろいろなことを考えてみたが、この小説についても、同じ経験をした。たとえば、この中で、「学生たちは、子供を持つことができない」と書かれていたが、これは、生理的に子供を作ることができないのか、それとも、規則として子供を作ることが許されないのだろうかと疑問に思った。子供を作ってはいけないのは倫理的に当然であろう。また、たぶん、遺伝学的にも、クローン同士で子供ができた場合、不都合があるに違いない。しかし、表現からしても、クローンたちには、もともと生理的に子供を作れないような処置が施されているのだろうか、あるいは、外的な生殖器官はあっても、生殖機能はもともとないのだろうか、などと想像してしまった。

一見、何事も起こらない平穏なヘールシャムでの無邪気な子供時代が描かれているようであるが、あちらこちらに疑問を呼び起こす伏線が張られている。そして、登場人物たちの会話や事件を通して、徐々に、さまざまな事実が明らかになる。が、最大で最後まで残る疑問は、なぜこうまでヘールシャムでは、創造性が重要視されているのか、である。

最後に近いところで、真実が創設者の一人であるミス・エミリーの口から明かされる。クローンたちにも「魂」があることを証明するために、子供たちの創造性を助長し、優れた作品を収集したのだった。彼女と共同創設者のマリー・クロードは、クローンたちにも魂があることを理由に、ヘールシャムのような人道的な環境をクローンたちに提供する必要性を説いたのであろう(たぶん、ほかの施設では、クローンには魂はないという前提のもと、クローンたちは家畜のような扱いをされていたと想像される)。

が、ヘールシャム計画は、その一部である臓器提供計画全体に対する大きな矛盾である。人間とは何かという問題になるだろうが、魂があれば、それは人間として認められるのではないだろうか。そして、臓器提供のために人間を創造するということは、人道性の上から絶対に許されることではない。ミス・エミリーはヘールシャムの閉鎖を社会的風潮の変化のせいにしているが、ヘールシャム計画は、最初から大きな矛盾を内臓したものであった。つまり、クローンにも魂があったら、臓器提供のためにクローンを創造することは明らかに許されるべきではない。ヘールシャム計画の成功こそ、その終焉を余儀なくするものであった。

この本はいろいろな問題を扱っているが、そのもっとも重要なものが、クローンにも魂はあるということであろう。クローンにも魂はあるかという疑問は、クローンが登場したときから、わたしも自分自身に投げかけていた疑問であったが、わたしもクローンに魂はあると思っていた。これを読者に確信させるために、一人称でクローンの一人の観点から、彼女を含めた登場人物の感情や性格が、詳細に、共感を呼び起こすように、描かれているわけである。この大きな問題に最後に直面する前に、読者は、すでにクローンも魂としては自分と変わらないことを確信しているのだ。

また、、こうした社会的問題のひとつとして、脳死の問題も若干言及されている。トミーが4回目の臓器摘出手術を受ける前のこととして触れられているが、technicallyには死んでいるが(もちろん、ここでもcompleteという言葉が使われているが、これは脳死を示唆しているのだと思う)、ある意味で意識はあり、そして残りの多くの臓器摘出が行われる様子について二人で語りあったとある。生命維持装置のスイッチが切られるまで、もう何もすることはなく、ただ自分の臓器が摘出されるのを見守るだけという「ホラー映画のような」光景があるだけだ。著者は脳死が人間の死とは認めていないのだろうか。

実は、まだまだ細かい疑問は残る。その1つが、ミス・ルーシーは、どのような考えから、ヘールシャムの方針に反対の姿勢をとったのか。深く考え出せば、底の尽きない本だ。ネット友達の言ったとおり、考えさせられることの多い本だった。




フランス郵便の不思議

2011-07-04 13:06:11 | フランスの生活
今日のフランス・ドルドーニュ地方の天気は気温30度



フランスで買い物をすると、単純なはずの買い物が思わず複雑になることがよくある。

夫の甥に男児誕生のお祝いカードを送ろうと切手を買いに、村の郵便局に行った。この程度の用事なら、わたしのフランス語でも十分だろうと思ったら、大間違い。8月にイギリスに住む友人とスペインに住む友人の誕生日があるので、ついでに誕生日カード用の切手も買っておこうと思ったのが、事を複雑にしたもとであった。

イギリス宛切手2枚とスペイン宛切手1枚くださいと言ったら、イギリス宛はいくらか知っているが、スペインのほうは知らないと言う。面倒なことはすぐに諦める性格のわたしは、ここでくじけそうになったが、何と言おうかと考えているうちに、コンピュータで調べてくれた(だったら、何も言わずに最初から調べろよ)。イギリス宛とスペイン宛では料金が違うと言う。指差すコンピュータの画面を見ると、スペインは77サンチーム、イギリスその他は67サンチームとなっている。同じEUなのに、なぜかスペインは高いのだ。

なんとか、スペイン宛の切手の値段を判明するところまでこぎつけたと思ったら、わたしの手にした封筒を見て、それのほかにイギリス宛2枚なのか、それを含めて2枚なのかと聞く。これもなんとかクリアし、投函してもらうため封筒を渡すと、2枚つづりの切手をくれた。金額の書かれていない、まったく同じ切手である。1枚はイギリス用、もう1枚はスペイン用だそうだ。こんなことなら、最初から、イギリス宛切手3枚くださいと言っておけば、よかった。ごたごたを避け、しかも10サンチームを節約することができたのに。

日本から来た友人が、全然フランス語ができないにもかかわらず、勇敢にも一人でこの郵便局に切手を買いに行った。英語だけで、どうやって目的達成したのかは謎であるが、局員が自分で葉書に切手を貼って投函すると言って譲らなかったと言って、不思議がっていたが、それは、きっと、すべての郵便物に確実に正しい料金の切手が貼られるようにするためなのだ。金額表示のない切手はイギリスにもあるが、料金の異なる郵便物に金額表示のない切手を使うことはない。たとえ10セントでも、この抜け穴を利用されることは確実だからだ。

スペインでは一度だけ金額表示のない切手にお目にかかったことがある。顔なじみのオランダ人・フランシスの経営する店で、イギリス宛の切手を買おうとしたら、「今、切手は置いていない。値段の書いていない切手を売ることはできないので」と言われた。金額表示のない切手なんて胡散臭いものを売るのは、自分の職業倫理にかかわることだということなのだろう。

しかたがないので、スペイン人経営の店に行ったら、出てきた切手には、やはり金額はなく、ただBと書かれていた。スペインでは1月1日にほとんどの公共料金が改正される。きっと、この切手は、新しい郵便料金が決定する前に暫定的に印刷されたものなのだろう。そのしばらく後には、新しい金額の表示された切手をフランシスの店でも売るようになった。