貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

男体山が別名黒髪山とは?

2021-11-25 14:50:57 | 日記
令和3年11月25日(木)
 四月一日、黒髪山(男体山)に霧がかかり、
雪がまだ白く残っている。
剃り捨てて 
  黒髪山に 
    衣更(ころもがへ)
の一句は、曽良の作となっているが、
実は芭蕉の代作である。
 こうして、『おくのほそ道』には、
事実と違う文章や設定が表現されている。
 芭蕉の文章は、曽良が丹念につけた日記
とも違い、
彼の想像の文章が挿入されている。
 それは、事実よりも文章の質を高める
ために、推敲を重ねて、
この旅日記を品格のある文章と俳句で
埋めていったから・・・。


青葉若葉に日の光が・・・!

2021-11-24 15:10:57 | 日記
令和3年11月24日(水)
あらたうと 
   青葉若葉の 
      日の光
 おお、何と尊く思われることだ。
 穏やかな世に、青葉・若葉に降り注ぐ
日光山の光は。
 芭蕉は、本気で家康を崇めている。
 その心と乞食を旨とする荘子への賛美
とはどうつながるのか。
 その詮索は、今回はなし。
 師匠の意見は、
 「家康の日光東照宮への挨拶句の趣が
強く出た句を、春先の青葉の美を
詠った句に仕上げた芭蕉の鋭い感覚が
素晴らしかった。」
ということだ。


家康への褒め詞

2021-11-22 15:31:40 | 日記
令和3年11月22日(月)
 さて、出立の日。
 3月27日のうちに、草加の宿に着く。
 出発早々、重い荷物を背負って歩き、
疲れ果てて宿に到着する。
 紙子(渋紙製の防寒着)、浴衣、雨具、
墨、筆、餞にもらった物は捨てるわけ
にもいかぬ荷厄介である。
 これら重い荷物が痩せた体を苦しめた。
 鳥木の室の八島明神(歌枕)にお参りする。
 神道に詳しい曽良が
「この祭神は、木の花さくや姫と申し、
富士山の浅間神社の祭神と同じ方です。」
と教えてくれる。
 三月三十日、日光山のふもとに泊まる。
 四月一日、日光山にお参りする。
 家康が天下太平をもたらしてくれたと
感謝している。
 そして、次の文章、最大限の家康褒め
である。
 私は芭蕉の褒める詞の累積に驚く。
「千歳未来を悟りたまふにや。
 今この御光一矢にかばやきて、
 恩沢八荒にあふれ、四民安堵の住みか
穏やかなり。
 なほ、はばかり多くて、筆をさし置きぬ。」
 そして一句。
あらたうと 
   青葉若葉の 
       日の光

 つづく。

『おくのほそ道』とは?

2021-11-21 13:35:38 | 日記
令和3年11月21日(日)
 ここへ来て、師匠は問う。
「『おくのほそ道』とは、何か。」

 まず、奥羽の旅、
 日光・白河・松島・平泉、尾花沢・
出羽三山・坂田・象潟。
 次いで、北陸の旅、
 出雲崎・金沢・福井・敦賀。
 八月二十日過ぎに大垣、
ここに九月六日まで滞在。
 以上、書き連ねた所が、
『おくのほそ道』の舞台である。
 私は、未だ二回踏破しただけ。
 もう少しゆったりその所々の食や温泉、
伝統、歴史など堪能しながらの旅を
してみたい。
 さて、
『おくのほそ道』は、俳諧紀行の体裁を
取っている。
 日記風の散文と、その場で詠んだ俳諧
とが互いに寄り合って、
独特の表現力で迫ってくる。
 難解なところもまだまだあり、
芭蕉の感性まで同化(?)していない節も
見られる。
 しかし、
 芭蕉の俳諧ができあがっていく過程を
知るには、格好の文献である。
 つづく。


別離の悲しさの一句

2021-11-20 13:42:05 | 日記
令和3年11月20日(土)
 さて、元禄二年(1689)三月二十七日
の早朝に旅が開始された。
 門人の曽良を供として出立し、
見送りに来た人々とともに、
舟で千住まで行って別れた。
 前途には三千里もの道中が予定されて
おり、上野や谷中の花とも別れて、
いささか心細い気持ちでの出立である。
 この文章、はじめは威勢のよい美文だが、
終わりにくると、別離の寂しさで、
元気がなくなってくる。
行春や 
   鳥啼魚の 
       目は泪
と、添えた一句の意味も涙と心細さである。
 鳥は泣き声で叫び、魚は泪を流し、
行く春を惜しんでいる。
 けだし、別離の悲しさである。