貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

蕉道: 更科逆(さかさ)紀行 (中山道の宿場)その2深い思いで!

2024-02-16 11:00:27 | 日記
令和6年2月16日(金)
蕉道: 更科逆(さかさ)紀行 
 (中山道の宿場)その2
 その後、大津、岐阜、名古屋等で
3ヶ月過ごし、
中山道を歩いて姨捨の月を見て、
江戸深川への帰路となる。
 紀行の地の文は約千字ほどで、
13句が詠まれている。
 そのうち、同行の弟子の越人
 (36歳)が2句を詠んでいる。
 弟子の名古屋の医師荷兮(かけい)が
従者を一人つけてくれ、
3人旅であったこともわかる。
 芭蕉は45歳となっている。
 さて、8月11日、
芭蕉達は、岐阜を出発し、
<岐阜長良川鵜飼船船着き場>

木曾街道に入り、
寝覚の床、木曽の桟、立峠、
猿ヶ馬場峠を経て、
更科に到着。
<鵜匠の像>

 姨捨から名月を観賞、
長野の善光寺を参拝し、
浅間山麓を通過して
江戸の芭蕉庵に戻る。
 私は、更科紀行の逆さ、
当時ではお上りさんとなる。
 中山道の宿場町を見つめ直す
よい機会となる。
 中山道は、教諭最後となった
○○小時代知り合い、
亡くなられるまで仲良くして
いただいた神山幸(さち)士(お)先生が、
退職後中山道を踏破。
 その都度記念のテレホンカード等を
いただく。
 当時流行っていた歩こう会
年締めの鎌倉の七つの切り通しを
ご夫妻一緒に走破したのも、
尊い思い出。
 亡くなられた後いただいたもので
わかったのだが、
先生は俳人でもあった。
 さて、中山道は、
「中山道六十九次」でもわかるように、
日本橋と三条大橋の間に
69の宿場が栄えていた。
 中野時代、
中山道板橋宿の近くに間借りして
いたのと家内の実家はすぐ傍でもある。
 道の広さと銭湯も懐かしい。
私にも深く係わる街道である。 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿