あいとポッポパーティー

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「ぼくを葬(おく)る」

2006-04-28 01:09:26 | 映画
ぼくを葬(おく)る
と、いう映画を昨日(26日)観ました。

観た直後はあまりいい気分はせず、帰宅してから「お口直し」に金八先生のビデオを観て号泣していました。

一晩経って、一応感想を書いておこうと思いました。

余命3ヶ月を宣告された青年が、迷いながらも残りの人生を選んでいく、という物語です。

この映画を観て、結局人の死というのはとりわけドラマティックなものでも、英雄的なものでもないのだと思いました。人の死なんて、人それぞれです。
そしたらこの映画の意味はいったい何なのだろう…? そんなことを言いたかったのかな?と思い、よくわからなくなったわけです。
しかもこの映画に寄せられている、「著名人?」らの感想がとってもイマイチに感じられたのもあり、何となく雰囲気だけの映画なのかなあ、とも思ったわけでした。

いや、しかし今はもう少し奥行きを感じています。
主人公のロマンは一人で死ぬことを選びながらも、「子」を遺し、財産を遺す。
最終的には人生を楽しみながら、彼自身の人生の中で死を迎えるのですが、ただ死んでいくのではなくて、死の準備をきちんとしたのでした。

私の母は47歳のときにガンで亡くなりました。
しかし母は、治療を試み、病院で亡くなりました。
母が亡くなったとき、父は「お母さんの死が、医学の進歩の助けになったと思えば少しは報われる」というようなことを話し、慰めだと思いつつも少し気が楽になったのを覚えています。
ちなみに映画の主人公は治療を一切拒みました。

人の「死」に何らかの意味を求めがちです。それがあたかも生きた証であるかのように。
確かに大切な人が亡くなるのは本当につらいので、「なぜ死んだのだ」といつまでも問いたくなります。
また、私もたまにですが、早く死が訪れることへの恐怖を感じることもあります(早死にする根拠は特にありませんけど。いとこがガンで26で亡くなったとか、身内にガンが多いからとかいう理由だけです)。
しかしやはり、意味があるのは死に至るまでの生そのものだと思います。
死に意味があるのではなくて、死の原因や背景に意味があるのだと思います。

こんなこと、以前にもこの日記に書いた記憶があります。前は靖国神社を訪れたときの感想でした。繰り返してしまった。

しかしここまで書いて思ったのですが、死へ意味を与えることと、死をいかに迎えるかとは別の話です。死を迎えるのは生きているうちしかできませんから、それもやはりどう生きたか、の一部なのでしょうか。

あまり映画の感想にはなりませんでした。そして少し独り言っぽくなってしまった。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あきよ)
2006-05-02 16:47:57
そうね。うちも父がガンで若死にしてるけど…。

「どう死ぬか」かは「どう生きるか」ってことだよね。
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Unknown (みさき)
2006-05-08 00:35:45
平和行進お疲れさまでした。

<「どう死ぬか」かは「どう生きるか」ってことだよね。



そう。まさに同感です。私にとって死というのはまだ恐ろしいものですが、でもどう生きるか、という問いを常に持ち続け、その問いに誠実に答えたいと思います。
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