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あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

グッドラック&グッドナイト &和ちゃん

2006-07-13 00:15:10 | 映画
心に余裕なく、日記書きをさぼりました。
なぜ余裕がなかったかと言うと、平和新聞「核兵器問題特集号」作成のために、仕事は遅々として進まないのに気持ちばかりに重い足かせが…あったためです。

しかしそれもようやく終わりました!
平和新聞7月15日号はおもろいですよ!

「はだしのゲン」作者の中沢啓治さんインタビューや、核兵器の「今」を解説する見開きページも。

ちなみに私が苦しんでいたのはこの見開きページ作りです。
親子で学ぶ核兵器問題、なんていう予告をしてしまったので、まずはキャラ作りから入り、わかりやすい言葉でしかし大事なことは外さず…とか何とかやっていたら、結局長い文章になってしまいました。

キャラは、ベタ?に平 和(たいら・かず)ちゃんという高校生が主役。
デザイン会社に頑張って指定を出し、描いていただきました。
こちらってなもんで。


ほいで、こちらが今号の表紙です。


ほいでもって、今号は大・普及版です。
友人の皆さん!(通りすがりの方も)
たっぷり刷りましたので、どしどしご応募ください(お試し読みを)。


そして今夜は話題の映画「グッドナイト&グッドラック」を観ました。

赤狩りが猛威を振るう1950年代初めのアメリカで、多くのマスコミが報復を恐れ沈黙する中で、主人公のエド・マローは自身のニュース番組で議員の策動を報道する。

「テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。…今のままでは歴史から手痛い報復を受ける」
マローの言葉は、まるで過剰な監視社会を築くアメリカを告発しているよう。そしてこの今の日本までをも、予告・告発しているかのようです。

エド・マロー役のデヴィッド・ストラザーンがとってもかっこよく、しびれました。

ココシリ

2006-06-29 01:03:01 | 映画
日比谷で「ココシリ」という映画を観ました。
映画を観られる生活って、本当にありがたい。

「ココシリ」と呼ばれるチベットに広がる広大な原野で、チベットカモシカの密猟者たちを追う「マウンテン・パトロール隊」の隊員たち。
彼らは無償で(自費で)、命をかけて密漁グループを追跡します。
厳しい自然を前に、次々と仲間が倒れていく。
そして時には密猟者たちに殺される者も。


中国の映画は、私は魅かれるものが多いです。
この映画も、ものすごく広い荒野、美しい星空など、規模が違うな…という印象です。

パトロール隊のリータイは、「守るべきもの」のため、最後まで密猟者の追跡をやめません。
最後、密猟者に問われます。「人間よりもカモシカが大事なのか?」 リータイは「うるさい」と一蹴。

しかし密漁者とともに行動する毛皮加工の職人らは、砂漠化による貧困から農業を離れた人々。

結局密漁という商売を成り立たせるのは、チベットカモシカの毛皮を買う欧米企業です。

それにしても登場する俳優さんがみんなカッコよかった…
なんだか身のない感想になってしまいました。

母たちの村

2006-06-28 01:25:14 | 映画
岩波ホールで「母たちの村」を観ました。

アフリカのある村を舞台にした、女性らの勇気ある行動をはつらつと描いています。
女性の性器を切除する「割礼」という風習。
自らも割礼を受け、2人を死産、帝王切開で1人だけ子どもを産むことができた主人公のコレが「こんな伝統はやめよう」と立ち上がる話。

作品のホームページには、

伝統を頑なに守ろうとする者、新たな未来を切り開こうとする者。本作は、小さな村で起こる、2つの価値観の衝突を通じて、アフリカの社会が抱える問題を浮き彫りにすると共に、「尊重しあい、勇気を持って生きること」の大切さを我々に教えてくれる。

とあります。


衛生上の必要性から性器を切除する場合もありますが、アフリカなどで今も広く残っている「割礼」は、主に宗教上(あるいは風習として)の理由からだそうです。
しかしものすごい苦痛を伴い、しかも時に命を危険にさらす「割礼」は、今では社会問題になっているとか。
日本でも「ドキュメント 女子割礼」(内海夏子、集英社新書)が2003年に出されていました。
この本はまったく知らなかったので、ぜひ手に入れようと思います。

この映画は、アフリカ人によって作られた映画。
私は最近では「ホテル・ルワンダ」や「ナイロビの蜂」に衝撃を受けましたが、より当事者に近い者による映画は更なる説得力がありました。

先日観た「マンダレイ」では、主人公グレースが、「奴隷」であった黒人たちに「授業」をする場面があります。
グレースは結局破綻しますが、例えば「割礼」なんて風習はとんでもねえと外部の人間(たいていは「先進国」の人間)が思っても、それを外から一方的に物言う、または「指導」することはできません。

「国際社会から見放された」と言ったホテル・ルワンダ。
富める国からの施しの影で巨大な不正が蔓延していたナイロビの蜂。
挫折した白人がいたマンダレイ。
自ら立ち上がった母たちの村。

…思い込みで価値観の押し付けはできませんが、結局は関心を持たない理由にはなりません。
映画のHPにもあった、「尊重しあい」の意味が問われるところ。
ムニャムニャ。

これらの映画は、エンディングの歌がものすごく明るいのが印象的でした。
「母たちの村」はそれほど明るい曲調ではありませんが、女性への賛歌のような、前向きにさせる歌でした。

靖国神社へ90人

2006-06-26 02:48:46 | 映画
25日(日)は、靖国神社へ行きました。
つたないものではありますが、私は案内役として。
山梨の病院職員の方々に依頼されたもので、ナント90人も。さすがに一度には無理なので、午前・午後と半分ずつに分かれて回りました。

ちなみに靖国神社とセットに、「女たちの戦争と平和資料館」へも見学するというコースだったようです。対照的な2つの資料館を見て、参加者が何を考えたかとても興味があります。
靖国神社にはもちろん家族が祀られているなど、一般の参拝者もいます。
そうした方々の思いに配慮しつつ、しかしこの靖国と日本政府の本当の狙いは何かを考えることが、この靖国見学の目的です。

45人を一度に案内するのも不安なので、友人のTいろーくんにヘルプをお願いしました。誘導や私の説明への補足など、とても助かりました。

私が必ず案内するポイントは、主に以下のものです。

まず前半は境内を案内します。
1.日清戦争の戦利品である、清国から持ってきた狛犬
2.日本陸軍の父と言われ、靖国神社の前身である東京招魂社設立を提案した大村益次郎像
3.富国徴兵保険会社(現・フコク生命)が贈った大灯篭
4.靖国神社には、天皇方の戦死者や国策によって動員された一部民間人が祀られていますが、それ以外の戦争での死者すべての霊を祀っているという鎮霊社(ただし神様にはなれず、ただその霊を鎮めているのみ)
5.靖国神社に祀られる約246万6000人の名簿が「神」になる儀式を行った「招魂斎庭」跡地
6.東京裁判でA級戦犯の無実を主張したパール判事像

そいで後半は資料館「遊就館」。ここは私には細かくは案内しきれませんが、ポイントはいくつかあります。
まずは靖国が61年前までの戦争をいかに描いているか。
必見は、戦死者が神になる儀式である「招魂式」の再現。
そして数々の遺影の中にまぎれる東条英機の写真と、「法務死」という記述。

見所は他にもたくさんあります。
大事なのは、見学者自身がこれらをどう見るか、という意識と視点。
小泉首相が今年も夏に参拝するとかどうとか。それに対して近隣アジア諸国からはまたもら非難の声があがっています。
もちろんアジア諸国がなぜそこまで怒るかということに思いを馳せつつも、その前に国内問題として考える必要があると思います。
外国から言われるからどうこうではなく、私たちがあの戦争をどう見るか。

「英霊にこたえる会」が境内で配っていた公式参拝を求める資材。


なんと中身はばんそうこうが2つ。



靖国神社を2回も案内するのはさすがに体力を消耗し、とても疲れました。心地よい疲れではありますけど。
そのあと、Tいろーくんに便乗し、映画を続けて2本観ました。
リトル・ランナー」 と
マンダレイ」。

リトル・ランナーは安心して、しかも笑って観られるとてもおもしろい映画でした。さわやかー。
マンダレイは私にとって、かなりよい映画でした。告発が鮮明というか。エンディングで観客を逃さないというか。(今のところ)私の10本の指に入りそうです。


「ナイロビの蜂」

2006-06-01 01:39:44 | 映画
前回前々回に関する日記は、コメント欄で続きます。

少し日が経ってしまいましたが、「ナイロビの蜂」を観ました。

イギリスの外交官であるジャスティンは、妻テッサの死因の真相を探る中で、製薬会社とイギリス政府官僚との癒着の実態が見えてきます。
そこには貧困に生きるアフリカの人々を使った薬物実験や、大国による「援助」の名の下で送られる薬品が本当に人々を助けているのかどうかなど、観る者にわかりやすい構図で告発しています。

私にとっては登場人物のめまぐるしさに少しついて行けない面もあったり、物語の展開に少し疑問を持ったりもしましたが、でもアフリカで起きている問題にいかに無知であるかを知らされる、よい映画でした。

ホテル・ルワンダ」は全国各地で上映されていますが、どこでもかなりの動員数を数えているようです。

この映画は今年の初めに観たと思いますが、かなりの衝撃でした。
アフリカの姿があまり見えない日本ですが、「私たちが本当に困っていたとき、国際社会は何の手も差し伸べなかった」という叫びが聞こえてくるようです。
ODAだとか武装自衛隊が乗り込むなどの「支援」をこういう場合に持ち出されるのかもしれません。
しかし何にしろ、実態を知らないままでは何の「支援」もできません。
しかも「ナイロビの蜂」では、大国によるおこがましい「支援」や、その下で利権を貪る企業やそれと癒着する国家権力の姿を垣間見ました。

私は「DAYS JAPAN」という「広河隆一責任編集◎世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌」を購読しています。
「人々の意思が戦争を止める日が必ず来る」という信念の下に、写真の持つ力を最大限に生かした雑誌です。大手メディアが視聴率やスポンサーばかりを気にして報道できないような、権力の暴走を告発するニュースや個の視点に立ったニュースなど満載です。こまごまといろんな地域の写真と記事が掲載されていますが、私が知らない問題も非常に多く、とても勉強になります。

そいで手元にある最新の6月号には、シエラレオネの記事が掲載されていました。
内戦が続いたシエラレオネ共和国では、統一革命戦線(RUF)の兵士が恐怖をあおるために市民の手足を切り落とすという戦術をとったそうです。手足を切られた被害者は2万人にのぼり、死者は7万5千人に達するそうです。
記事には手を切られた男性(31歳)が、7歳の息子にシャツのボタンを留めてもらう場面の写真が掲載されています。

ナイロビはケニアの首都だったか。
ルワンダってどこだっけ?
シエラレオネなんてほとんど聞いたこともない…。

地図を見てみました(=図)。
わずかに塗りつぶしましたが、左からシエラレオネ、ルワンダ、ケニアです。
改めて地図を見ると、エジプト、南アフリカ、コートジボワールくらいしか自信を持って指し示すことができません。
でも国名だけは、聞いたことのあるものは多いのです。
ニュースとしてしか聞いていなかったのか…と思います。

「戦場のアリア」 対等な「敵」

2006-05-27 23:04:04 | 映画
戦場のアリア」を観ました。

第一次大戦下のクリスマスイブ、スコットランド・フランスの連合軍とドイツ軍とが対峙する前線において、音楽とクリスマスを祝う思いとが、敵同士を引き合わせ人間同士の交流を実現させたという奇跡的な実話を再現した映画です。

互いを知りもせず、相手国はこんなにひどい国なのだとあおられ憎しみを増して戦場へ行く青年たち。
そして実際の前線においては友人を殺され、兄を殺され、憎しみはよりリアルに迫ります。

そうした状況の下で、イブの夜に音楽が互いを結びつけ、初めは互いを探りあいながらも敵同士が率直な交流を交わすのです。

戦前は互いの国を行き来したこともあったのに、いざ戦争が始まったために決して往来はできず、そこに生きる者はとんでもない「敵」だと教えこまれる。
結局前線に出る者は貧しい者であり、一市民同士であり、同じ人間である。

けれど互いに人間的交流を深める傍らで、兄を目の前で殺された青年は決して「敵」と触れ合おうとはしません。
戦争とは、当然殺し合いが目的であり、決して「敵」同士ではなかった者が殺し合うことによって本当の「敵」になるのだと思います。

途中には心地よい笑いも交えつつ、決してこの出来事を空想的な奇跡とのみ描いていないあたりは、戦争を批判する映画としてさわやかな気持ちで観ることができました。

ただ物足りなさはぬぐえません。
オペラがいかにも口パクだったというのも一つの理由ですが…。
ヨーロッパの戦争と日本の戦争、そして第一次大戦と最近の戦争とは違うのかもしれませんが、日本がアジアで起こした戦争、そして最近では米軍などによるイラク戦争においては、決して「前線」でこのような奇跡は起こらないと思います。
この映画では、敵同士は対等でしたが、日本やイラクでの戦争では決して対等ではありません。基本的に加害者として、絶対的に強い者として日本軍や米軍が現地に入り、市民生活の中にまで入り込んで「戦場」を広げていったのだと思います。

この映画を観て、戦争はいけない、結局犠牲となるのは市民なのだと、多くの人は思うと思います。
でも一度戦場に送られたら抗うことは困難です。このことは、この映画においても示されていました。

戦争に行かずにすむには、戦争の準備をさせないことです。
戦争の準備が着々と、しかもコソコソと進められているこの日本で「戦場のアリア」が上映されることの意味を考えると、あともう一声!がほしいところだなと思いました。

「ぼくを葬(おく)る」

2006-04-28 01:09:26 | 映画
ぼくを葬(おく)る
と、いう映画を昨日(26日)観ました。

観た直後はあまりいい気分はせず、帰宅してから「お口直し」に金八先生のビデオを観て号泣していました。

一晩経って、一応感想を書いておこうと思いました。

余命3ヶ月を宣告された青年が、迷いながらも残りの人生を選んでいく、という物語です。

この映画を観て、結局人の死というのはとりわけドラマティックなものでも、英雄的なものでもないのだと思いました。人の死なんて、人それぞれです。
そしたらこの映画の意味はいったい何なのだろう…? そんなことを言いたかったのかな?と思い、よくわからなくなったわけです。
しかもこの映画に寄せられている、「著名人?」らの感想がとってもイマイチに感じられたのもあり、何となく雰囲気だけの映画なのかなあ、とも思ったわけでした。

いや、しかし今はもう少し奥行きを感じています。
主人公のロマンは一人で死ぬことを選びながらも、「子」を遺し、財産を遺す。
最終的には人生を楽しみながら、彼自身の人生の中で死を迎えるのですが、ただ死んでいくのではなくて、死の準備をきちんとしたのでした。

私の母は47歳のときにガンで亡くなりました。
しかし母は、治療を試み、病院で亡くなりました。
母が亡くなったとき、父は「お母さんの死が、医学の進歩の助けになったと思えば少しは報われる」というようなことを話し、慰めだと思いつつも少し気が楽になったのを覚えています。
ちなみに映画の主人公は治療を一切拒みました。

人の「死」に何らかの意味を求めがちです。それがあたかも生きた証であるかのように。
確かに大切な人が亡くなるのは本当につらいので、「なぜ死んだのだ」といつまでも問いたくなります。
また、私もたまにですが、早く死が訪れることへの恐怖を感じることもあります(早死にする根拠は特にありませんけど。いとこがガンで26で亡くなったとか、身内にガンが多いからとかいう理由だけです)。
しかしやはり、意味があるのは死に至るまでの生そのものだと思います。
死に意味があるのではなくて、死の原因や背景に意味があるのだと思います。

こんなこと、以前にもこの日記に書いた記憶があります。前は靖国神社を訪れたときの感想でした。繰り返してしまった。

しかしここまで書いて思ったのですが、死へ意味を与えることと、死をいかに迎えるかとは別の話です。死を迎えるのは生きているうちしかできませんから、それもやはりどう生きたか、の一部なのでしょうか。

あまり映画の感想にはなりませんでした。そして少し独り言っぽくなってしまった。

「三池 終わらない炭鉱の物語」

2006-04-25 00:32:41 | 映画
先々週の土曜、映画「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督)を見ました。
タ・ダで。
マガジン9条」という、9条について考える素材をたくさん提供してくれるホームページがありますが、そこでのプレゼントに応募したら見事当たったのでした。

この映画は、三池争議をめぐる人々の証言を中心に構成されたドキュメンタリーです。
三池争議と言っても、私のような20代の“若い”世代にはあまり知られていません。私は、かつて三池炭鉱でものすごい争議があったのだ、ということくらいは聞いていましたが、詳しいことは知りません。だいたい「争議」という言葉すら、今はあまり聞きません。

三池争議とは、かなり大規模かつ歴史ある三池炭鉱の労働者が、雇用主である「三井」に対して労働条件の改善を求めた闘争です。全国からの応援もたくさんあり、歴史的な大争議になりました。

荒木栄の「地底のうた」という、ものすごい名曲があります。
三池炭鉱の労働者たちの熱い思いをつづった歌です。

映画は、労働組合で真っ向からたたかった人、第二組合を作った人、資本家、三代で働き続ける女性、事故で一酸化中毒になった夫を看続ける女性、等々いろんな立場の人が登場します。
組合の先頭に立ち、資本家に毅然と立ち向かった人はものすごいと思います。
しかしおもしろかった(と言ってよいかはわかりませんが)のは、「向坂教室が悪かった」と言う女性のことばです。つまり学問上の労使闘争の構図を、我々に対し駒のように当てはめたのだ、と言うのです。
実際、労組を作ってたたかい続けるのは大変なことです。資本の側はいろんな策を練り、自主退職や第二組合を利用します。第二組合ができ、労働者同士がいがみ合う場面も生まれてきます。そもそも生活のためにたたかってきた彼らの中には、何のためのたたかいなのかが見えなくなったりもします。

本来的に対立しているのは、資本対労働者であることは間違いないとは思いますが、これは不鮮明になりがちだし、結局目の前の暮らしを維持できなくなることもままあります。暮らしのためのたたかいが、長い目で見れば働く者の権利向上に結びつくとしても、明日の暮らしを脅かすものであればたたかいを続けることは困難を極めます。
当然、明日の暮らしを脅かすことは当初からわかっているとは思うし、それでも続ける人は多くいるからこそ少しずつ暮らしは改善されてきました。たたかい続けた人は暮らしが裕福だったから続けたのではなく、かなり厳しい中にあったと思います。
しかしそれでも、その人生を選んだのだ、ということだと思いました。

この映画を材料に、学び合い考え合えたらよいと思います。
これと併せて観たいのは、「ドレイ工場」(1967年、山本薩夫監督、前田吟主演)という映画です。
私は学生時代に観て、とても勉強になったのと、感激したのを覚えています。

「Little Birdsリトルバーズ ―イラク 戦火の家族たち―」

2006-04-17 00:36:14 | 映画
先週1週間は、緊張の取材をはさみつつも、あまり残業せずにゆったり過ごしてみました。たっぷり睡眠を毎日とると、気分がよいです。
そいで映画も見ました。
1つは「いつか読書する日」。田中裕子や岸部一徳が出演しています。
かなりグッとくる映画でした。照れますので多くは語りませんが、なかなかに重層的な映画でした。音楽(池辺晋一郎)もかなりよかったです。(私の)5本の指に入ります。(残り4本のうち1つは中国の「故郷の香り」)
お勧めしたいよい映画はたくさんありますが、(私の)5本の指に数えられる映画は、優れているとかどうというのは別に、より私に沿った映画だということなのかもしれません。
そこに共通する(私の勝手な)キーワードは、「誠実(誠意)って何かねぇ…」(本編のせりふではありません)。

少し意味不明の日記になってしまいました。
以上とは別に、お勧めしたい映画を紹介します。

「Little Birdsリトルバーズ ―イラク 戦火の家族たち―」(マクザム、102分+特典、5985円)(綿井健陽監督)です。

いろんな場所で上映会もされていますが、最近DVD(特典付)も発売されました。ぜひいろんな人と一度見て、感想を出し合ってみてほしいです。
平和新聞に紹介文を書くために、私は家の小さなパソコン画面で見ました。

私は綿井さんとは面識はまったくありませんが、なんとなく「この人はいい人だ!」と思っています。すごく勝手に。しかも「いい人」ってよくわからん表現ですけど。
なぜそう思ったかと言うと、1つはブログがおもしろいこと。
もう1つは、綿井さんが出演されたNHKの「課外授業 ようこそ先輩」を見て。
クラス全員にビデオカメラを持たせ、「幸せ」をテーマに撮らせるのですが、転校を前にしたある生徒の映像を見て、綿井さんはホロリとするのです。
ビデオジャーナリストとして、イラク戦争など厳しい現場に足を運んでいる綿井さんですが、この人が撮りたいものは本質的には「生(せい)」というか、暮らし・営みの尊さ、というようなものなのだろうと感じたのでした。そいで、私も単純なのですが、感激したのでありました。

そんな綿井さんがイラクの人々を丁寧に追ったドキュメンタリー。
平和新聞4月15日号に書いた映画紹介文に加筆したものです。

↓↓
本作品は、ビデオジャーナリストの綿井健陽氏が、戦火の中で生きるイラクの家族を追い続けたドキュメンタリーである。
3月20日のイラク開戦直前、イラク人は綿井氏のカメラに投げかける。「日本は広島・長崎を経験している。日本は好きだ。しかしなぜアメリカを支持するのか?」「なぜ急にイラクへの気持ちを変えたのか?」なぜ。
空爆開始から5日後、イラク人の疑問は怒りに変わる。綿井氏は空爆直後の現場に遭遇し、そこにいたイラク人に当時の様子を取材しようとする。しかし答えは「ノーアンサー」。「(殺したのは)お前らとブッシュだ。お前らとブッシュは一緒にイラクを破壊している」。

4月9日バグダッド陥落。町に米軍車両が乗り入れ、「悲しい制圧」が始まる。町では、ブッシュ像を倒そうとする者、それを遠巻きに静かに見つめる者。綿井氏は米兵に「何しに来たのか」と尋ねる。「イラク人を助けに来た」。綿井氏はさらに「これ以上殺さないでくれ」と訴える。「(殺したのは)わざとじゃない」「いろんな意見があるんだ」若い米兵たちは自信なさげに答え、その場を足早に立ち去っていった。
この場面を画面で見る私たちは、混乱に陥る。誰が何のために戦争を起こしたのだったか…?

サマワに駐留する自衛隊は、イラク人の血とは無縁のごとく、のんき顔で日本のマスコミへPRを続ける。まるで道化のようにも見える。日本のマスコミは自衛隊の食事に気をとられ、バグダッドやその他の虐殺現場には興味をもてないのだろうか。

虐殺は続いている。日本にいる私たちには、その様子を知ることは難しい。こうしたジャーナリストの活動が、切実に必要なのだ。病院で家族を看るイラク人は叫ぶ「撮れ。これを撮れ。これがアメリカのやることか。サダムと一緒じゃないか」

米兵が投下したクラスター爆弾の破片が右目に刺さったままの少女は、最後に語った。「人間として見てほしい」「私にとっての戦争はまだ終わっていません」「私たちは自分たちの暮らしを取り戻し守り続けていきたい」

カメラに向かったイラク人の怒りは、これを観る私たち自身に対するものではないか。この作品を見てもなお、「民主主義国家」による戦争が避けられないこともあると、言える人がいるだろうか。

↓↓
DVD付録の冊子に、綿井さんは「簡単には泣かないでほしい」と書いています。
しかしやはり私は少し泣いてしまいました。綿井さんが米兵に「何のための戦争か」と尋ね、若い米兵が「答えたくないな」とにじり去る場面。「人間の盾」にも参加した若い女性が「病院で死んでいく子どもたちを見よ」と詰め寄り、若い米兵は目をそらすしかできない場面。
イラク人がカメラに怒りをぶつける場面。
それでも、カメラに向かって静かに語る場面。などなど。


写真は今日ガイドをした靖国神社近くの川。

「男たちの大和YAMATO」と内藤先生

2006-01-11 01:10:50 | 映画
友人Tろ~くんに無料チケットをいただき、映画「男たちの大和YAMATO」を見に行きました。
題名だけ見ると挑発的な、戦争礼賛の映画かなと思いきや、いろんな評判を聞くと反戦メッセージも込められているという。好意的な評価が多いのです。

けれど結論から言えば、私は決して平和のための映画ではないと思いました。
大きな問題は、「死んだらいかん」「命を大切にしろ」という強いメッセージがありますが、でもあの戦争で中国はじめアジアの人々の命をいかに粗末に扱ったかということを思えば、非常に矛盾しています。
「戦争のために」「お国のために」死ぬことがいかに愚かか、というメッセージは正しいし、共感します。
しかし同時に、日本という「お国のために」無残に殺されていったアジアの人々の命を、なぜ大切にできなかったのでしょうか。

これは映画ですから、ひとつの戦争を描く上でいろんな切り口があります。
でも60年前までの日本の戦争を描くとき、特に戦場を描くとき、私は日本の「加害」抜きに語るべきことはないと思います。
少なくとも、多少なりともこれからの「平和」のためにというテーマを標榜するならなおさらです。

指摘すればキリがありませんが、せずにはいられません。
この映画が、決して平和のためのものではないと思った理由。
思いつくままに列挙してしまいます。

↓↓↓↓↓↓

映画では、敵はまるで米軍であるように描いています。
もちろん当時の「敵」はアメリカで、米軍と殺し合いをしていたのですが、日本軍がもっと殺したのはアジアに住む人々です。
おそらく日本軍にとってアジア諸国は「敵」ではなくて、支配の対象だったのだと思います。
映画にはアジアの姿はまったく見えません。日本の人々と、顔の見えない米軍という敵。
映画の冒頭で、「日本が中国を侵攻したためアメリカなどは日本を経済封鎖した。追い詰められた日本は真珠湾攻撃を決行」などとナレーションが入ります。
いったい何のために戦ったのか、とてもあやふやです。

そこで、死を前提とした戦いの、いろんな理由付けを、各場面で試みています。
たとえば長嶋一茂演じる大尉の「死に方用意」の話。
「負けて目覚める」。日本は進歩を軽んじた。負けて目覚め、新生日本を築こう。そのために我々は先駆けて死のう。
とか何とか。
いよいよ迫る死を目前にして、「新生日本のために」とでも思わなければやり切れない、という気持ちはあると思います。
けどやはり、なぜ新生日本のために若い彼らが死ななければならないのか、なぜ米軍と殺し合いをしなくてはならないのか、なぜ中国人を殺さなければならないのか。
妥当性がありません。
普通の市民だった多くの兵士や住民が死に、侵略先の住民を殺すことでそこから教訓を得、新生日本が生まれるなんて考えられるでしょうか。
もし何らかの教訓が得られるとしても、勝手に殺しておいて傲慢ではないでしょうか。


他にも、まるで当時の作戦が無謀だったからたくさんの兵士が犠牲になったのだ、という描き方。
作戦が無謀だったのは事実です。大和を援護する戦闘機もなしに、特攻船として沖縄へ出撃するのだから。
渡哲也演じる長官も、無謀な命令に対して一応抵抗してみせる。前述の長嶋一茂の言葉も、無謀な上層部に対する抵抗、と読み取ることもできる。
私はこの流れを見て、当時のような無茶な命令をする日本軍だからよくなかったのだ、という印象を持たせるのではと感じました。
結局、無茶な軍部の犠牲になった兵士たちの死の上に、新生日本があるのだと。そして新生日本が持つべき軍隊は、冷静で合理的な組織がふさわしい、と。
たとえば最近民主党が話題にする「シビリアンコントロールが効いた軍隊(と言ってたかはあやふや)を」という主張につながるような。
まるでシビリアンによる統制の下にある軍隊なら、無茶な戦争はしない、というような。
けれど今のアメリカを見たらわかるように、シビリアンコントロールが効いた下での軍隊が、世界中で一体何をしているか。


いかん。長くなりすぎ。

映画の中で勇敢に戦う彼らを見て、家族や恋人との別れを惜しむ彼らを見て、靖国神社へ行かねば、と思った人も多いようです。
彼らの死の上に今の日本がある、感謝せねば、と思うようです。
アジア人の死の上に今の日本があるのでしょうか。アジア人にも感謝するのでしょうか。
彼らの死の上にできた今の日本は、憲法9条を変えて自衛隊を「闘える軍隊」にし、イラクで大殺戮を行った米軍のような国にするために懸命に画策しています。
それが負けて得た新生日本なのでしょうか。
自分の家族や恋人、そして正義のようなものを守るために、なぜか見知らぬ土地へ行って大義を振りかざして見えない「敵」を探し歩いて掃討していくのでしょうか。


…なんて、まるでケチをつけるようですがそんなつもりもありません。
家族や恋人との別れを惜しむシーンは真実なのだと思います。
「死んだらいけん」というメッセージも正しいですが、万人に普遍的であるべきだと思います。


見出しの内藤先生とは、日本平和委員会代表理事で弁護士の内藤功さんのことです。この映画を観たらしく、その評を昨日聞いたのでした。
戦争体験を持つ先生の感想は、より現実味を帯びていました。