And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

新鮮な未亡人

2016-05-10 23:02:50 | 日記
自分が学生の時にはもう埴谷雄高は古いという印象があった。もちろん好きで読んでいた友人もいたが。サルトルもかつては人気があったくらいの風潮ではあった。今でも覚えているのが浪人していたとき予備校で講師が今の学生で大江を読まないのはもぐりだと言ったこと。サルトルはその大江健三郎が学生の時くらいが一番読まれていたのだろうから、まだ自分が学生の時はサルトル生きていたけれど、とても同時代の作家とは言えない。まだサルトル全集が出ていたので読もうと思えば読めたけれど、ノーマン・メイラーなどはあっても分厚い単行本でとても買う気がしなかった。カミュも全集出ていて2冊くらいは買ったが、カミュこそ一時期のはやり作家程度の評価でなかろうか。どの作家がどのような評価を受けようが関係ない。友人との巡り会いと一緒で好きなものは長く付き合える。合わないのは理屈でないのでどうしようもない。それでいくと長い友人はジョイスとサルトルか。サルトルは哲学のほうはほとんど読んでないので好きと言っていいのかわからないけれど。小説家でなければエリオットと西脇順三郎はその前から。あとの作家はすべて忘れたわけではない。大江健三郎は予備校でそう言われて小説何冊か読んだけれども、小説より評論のほうが好き。ヌーヴォーロマンは好きで片っ端から買った。今でも南米文学よりヌーヴォーロマンに興味ある。でもその「新しい小説」からもう半世紀も経っている。フリージャズは今ではどこが難しいのだろうと聴いて思うが、ベケットの3部作は今でもわからない。「古典」になるものと自分の中で未だ新しい響きがあるものがある。読んだのは日本語だがギンズバーグの「吠える」は今でも若者の叫びが聞こえる。逆に「怒れる若者たち」のオズボーン「怒りをこめて振り返れ」は映画で観たら何だと思ってしまう。もうディランの「時代は変わる」は聴きたくない。70過ぎたおじさんに父さん母さんたちと言われてもねえ。自分の新しいはリチャード・ブローティガンあたりで止まっている。ポール・オースターもぴんとこなかった。ようするに友だちになれなかった。その前の世代のソール・ベローなど今でも文庫で読めるのだろうか。今はネットで手に入るからぐるぐる古本屋を回らなくていいので、手に入れようと思えば難しいことではないけれど。今でもニューヨーカーに若い作家が短編を出しているのだろうか。「ニューヨーカー短編集」でいろんな作家を知った。アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」を思い出すと当時の日差しがよみがえる。また昔の思い出に戻ってしまった。