And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る?

2016-05-16 22:01:51 | 日記
紀伊國屋書店からブニュエル、ワイダ、アンゲロプロスなどボックスで出たのはありがたいのだが、どれもあと一息何本か残っているのは残念。でもこの3人がまとめて出るなどもうないかもしれないのでありがたい。出たものはすべて買っているので探す必要ないが、これら絶版になるとオークションなどでとんでもない値段がつくことは目に見えている。「盗まれた街」の最初の映画化「ボディ・スナッチャー」もしばらくぶりでディスク化されるようで、観たかった人はほっとしているのではないだろうか。LDで出て、DVDに一度なったのだけどどういうわけかカラー着色版でそれもとっくに手に入らない。今回オリジナルの白黒版なので出るのはうれしい。この映画の怖さはやはり白黒で観ないとと思っていた。とんでもない値段というとジャズのオリジナル盤はネットが普及する前から中古レコード店でとんでもない値段になっていて、それをマニアが買っていたことを考えると二千円くらいのDVDが一万といわれても手に入らないなら仕方ないのか。まったくタイミングで買い逃すとそうなる。「ボディ・スナッチャー」も廃盤になって10年以上は経つのではないだろうか。LDで出て、なぜかDVDにならないのもたくさんある。知らないだけで出てるのがあるかもしれないが、たとえばスタートレックLDボックスに入っていたNG集とか。これもボックスに入っていたのだが「カサブランカ」カラー着色版。ビリーワイルダーで「翼よ! あれが巴里の灯だ」がDVDにならない。あと「バディ・バディ」がDVDになればワイルダーも全部そろうのに。ヴィスコンティの「異邦人」はDVDはおろかビデオ、LDにもなっていないはず。フェリーニは「アマルコルド」なにか意地悪かのようにみんな1本2本と抜けている。溝口健二も何本かLDにはなったがDVDになってないのがある。でもいい。アンゲロプロスなら「旅芸人の記録」さえあれば他はなくても。ブニュエルは1本に絞れないが「皆殺しの天使」がDVDになっているのだからそれで満足。ベルイマンもLDまでは数本だったが、DVDになって8割方観られるようになった。映画館でリバイバルを待っていた時代なら一生観られなかっただろう。将来は円盤さえ消えてスティックで映画を観るようになるのかもしれない。死の床につくとき、ゴミ屋敷のDVDやCDを思い浮かべるのだろうか。その頃DVDやCDを再生する機械がなくなっていたら本当にゴミ屋敷になってしまう。でもそれもいい。明日のことを思い悩むことはないのだから。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

不注意な水

2016-05-13 22:05:50 | 日記
世話になったジャズ喫茶のマスターが亡くなり葬儀に行ってきた。別に葬儀の曲ではないのだけれど、バーバーのアダージョを聴いている。若いとき、もしかして今もそうかもしれない、ジャズ喫茶はどうも独特の緊張感がリラックスを妨げている。昔は本を読んでいてもリクエストしたなら読むのやめて聴けという雰囲気があった。周りの常連も何か神経質そうで、初めて入ろうものなら何しに来たとじろっとにらまれそう。とてもマスターと仲良く話すなどできなかった。学生の時はいっぱいあったジャズ喫茶もあっという間にみんな閉めた。名曲喫茶も行った。渋谷のライオンなんか入ると外とは別世界になる。何の害もないのだけれど、楽譜と指揮棒持ってきてスピーカーに向かって振っている人を見ると、ここも自分にはくつろげないと思った。当たり前なのだけれど、くつろぐには自分の部屋で好きな音楽をかける。でも好きな音楽だとそっちに気がいって本を読めないというのがある。それでも昔のように針を上げる心配はなくなったが。ジャズ喫茶ではレコード半面しかかけないが、曲順の思いが伝わってくる。レコードによってはA面ばかりB面ばかり聴いたというのがよくあった。マイルスでいうなら「スケッチオブスペイン」はA面で「マイルストーン」はB面のように。逆にキース・ジャレットのピアノソロのようにCDになって1時間通して聴けるようになったというのもある。ジョン・レノンの「ダブル・ファンタジー」レコードのときはジョン・レノンの歌だけ聴くのは難しかったけど、CDになったら簡単にオノ・ヨーコの歌を飛ばせるようになった。二人は一体といってもどうしてもヨーコの歌は聴きたくない。それどころか「イマジン」で「オーヨーコ」を聴いてぞっとしてジョン・レノンも聴かなくなった。ポール・マッカートニーもゴミ連発でジョンのいうように夢は終わったという気がした。ビートルズは唯一再結成しなかった。金のためという必要がなかったのもあったのだろうが、50過ぎたメンバーの「抱きしめたい」なんか聞かされなくてよかった。思想のないポールだけがいまだ一人ビートルズしている。CDになって未発表が多く発掘され、コンプリートとしてボックスが数多く出た。それらは単純に録音順に並べられているから、レコードで出ていたときのようなセンスも雰囲気も何もない。エヴァンスのリヴァーサイド、マイルスのプレスティッジそんなの録音順に聴いたって面白いわけないだろう。1枚30分しか入ってなくて損したという気がしてもレコードのジャケットでレコードの曲順で聴かなければ。

与えられたとせよ

2016-05-12 21:16:15 | 日記
埴谷雄高の「死靈」を読もうと文庫で3冊買ってきた。文庫になったのはここ10年くらいだと知って、とても単行本なら読む気にはならなかっただろうと思った。未完で終わった・・未完で終わったものはいくつか知っている。「失われた時を求めて」は幸い話が通るくらいに書き終わってはいるが、未完といっていい。W・C・ウィリアムズの「パターソン」は6巻目も書き始めていた。C・オルソンの「マキシマス・ポエムズ」も完結していないと思う。カフカの長編。断片を読むのがカフカの楽しみかもしれない。サルトルの「自由への道」読んでて途中で書くのをやめたのもわかる気がする。ムージルの「特性のない男」よくわからなかったし、結末のいる小説なのかと思った。モーツァルトの「レクィエム」死んではどうにもならない。ブルックナー交響曲9番、マーラー交響曲10番しかり。シューベルトは「未完成」をやめてしまった。デュシャンの「大ガラス」ちょっと思いつくだけでもこれだけある。モーツァルトは好きではないけど、好きでないからなおさら「レクィエム」の後半が弟子作でモーツァルトと関係なのに抵抗を感じていたが、昔はそれも含めて「レクィエム」といっていた。今はいろいろなバージョンが出ているので自分の気に入るのを聴けばよい。ホグウッドのハイドン交響曲全集あと20曲くらいというところで、レコード会社の意向だと思うが中断してそのまま終わってしまった。「アンドレ・ブルトン集成」確か12巻刊行予定が6巻で中止。これは日本の出版社。ドラマでもそうだが、きちっと解決して終わらなくてもいい気がする。昔観た「ロンドン特捜隊スウィーニー」で犯人が捕まらなくて終わるのがあって、とても新鮮だった。たまにあるからいい。そんなのばかりだと腹立つだけだ。量の問題じゃないかもしれないけど、持っただけで手がだるくなるような厚さの「マキシマス・ポエムズ」を未完だといわれても。難解なので英語で読んでもほとんどわからない。これの全訳が出て、またその厚さが西脇順三郎全詩集と同じくらいある。とてもパラパラめくってなんてできない。よくこの時代にこんな厚さの本が出せたと思う。まさか大学で学生に買わせることもできまい。自分のようなアメリカ詩の好きなマニアなどそういるとも思えない。好きで興味あっても30ページくらいあればいいかな。長篇詩はこういうだらだらと長く完結しないものが多い。まあ許せるのだが、結末がないのわかっていて、さて長編小説は読むかな?

新鮮な未亡人

2016-05-10 23:02:50 | 日記
自分が学生の時にはもう埴谷雄高は古いという印象があった。もちろん好きで読んでいた友人もいたが。サルトルもかつては人気があったくらいの風潮ではあった。今でも覚えているのが浪人していたとき予備校で講師が今の学生で大江を読まないのはもぐりだと言ったこと。サルトルはその大江健三郎が学生の時くらいが一番読まれていたのだろうから、まだ自分が学生の時はサルトル生きていたけれど、とても同時代の作家とは言えない。まだサルトル全集が出ていたので読もうと思えば読めたけれど、ノーマン・メイラーなどはあっても分厚い単行本でとても買う気がしなかった。カミュも全集出ていて2冊くらいは買ったが、カミュこそ一時期のはやり作家程度の評価でなかろうか。どの作家がどのような評価を受けようが関係ない。友人との巡り会いと一緒で好きなものは長く付き合える。合わないのは理屈でないのでどうしようもない。それでいくと長い友人はジョイスとサルトルか。サルトルは哲学のほうはほとんど読んでないので好きと言っていいのかわからないけれど。小説家でなければエリオットと西脇順三郎はその前から。あとの作家はすべて忘れたわけではない。大江健三郎は予備校でそう言われて小説何冊か読んだけれども、小説より評論のほうが好き。ヌーヴォーロマンは好きで片っ端から買った。今でも南米文学よりヌーヴォーロマンに興味ある。でもその「新しい小説」からもう半世紀も経っている。フリージャズは今ではどこが難しいのだろうと聴いて思うが、ベケットの3部作は今でもわからない。「古典」になるものと自分の中で未だ新しい響きがあるものがある。読んだのは日本語だがギンズバーグの「吠える」は今でも若者の叫びが聞こえる。逆に「怒れる若者たち」のオズボーン「怒りをこめて振り返れ」は映画で観たら何だと思ってしまう。もうディランの「時代は変わる」は聴きたくない。70過ぎたおじさんに父さん母さんたちと言われてもねえ。自分の新しいはリチャード・ブローティガンあたりで止まっている。ポール・オースターもぴんとこなかった。ようするに友だちになれなかった。その前の世代のソール・ベローなど今でも文庫で読めるのだろうか。今はネットで手に入るからぐるぐる古本屋を回らなくていいので、手に入れようと思えば難しいことではないけれど。今でもニューヨーカーに若い作家が短編を出しているのだろうか。「ニューヨーカー短編集」でいろんな作家を知った。アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」を思い出すと当時の日差しがよみがえる。また昔の思い出に戻ってしまった。

第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には

2016-05-08 21:50:42 | 日記
ローランドカークはレコードのときはほとんど聴いていなくて、かなり前だけどマーキュリー録音のコンプリートがボックスで出たとき買った。昔は心ない評論家からグロテスクジャズなどと言われたが、音楽はユーモラスで明るく美しい。いきなりボックスだったからどういう形でレコードとして出たかわからず、かといってバラで買うのはもったいないからそのまま。一時期マーキュリー盤が紙ジャケットで出たのだけれど同じ理由で買わなかったらあっという間に廃盤。買っておけばよかったなと思っても中古で高いなら買う気もせずとずっと思っていて、最近また出てるのかと探したらまともな値段だったので何枚かずつ買ってとうとう8枚全部そろった。アトランティックもまさかの国内盤で全部出たので、ローランドカークもほぼ全部聴けることになった。一通り聴いて、また何年も出して聴いたことなかったボックスを聴いてみた。自分のジャズの好みは狭い。逆に好きなミュージシャンははぼすべて持っている。コレクションというのはたとえば西脇順三郎全集3度出て、3セット持っているようなとても無駄なことが多い。グールドもコンプリートコレクションが2セットとバラで揃えたのが1セットと西脇と同じで中身はほぼ同じなのだ。本は全集でもしくは単行本で買ったけれど文庫で出たから買い直すとか、それくらいなら自分でも納得できるのだが、西脇などそのほかに選集などもあり全集はきれいなままだから、自分が死んだらいい値段で売れると思うが家族には本の価値はわかるまい。死んだら関係ないからどうしてもらってもかまわないのだが、これだけ金掛けたコレクションも当然絵画とは違って売っても1回旅行行ったらおしまいくらいの金にしかならないのではないだろうか。でも家族にしてみたらゴミとして捨てるより小遣いが入ったほうがいいに決まってる。こんなこと書くと明日にでも死んだら遺書になるなとふと思った。昔から全集と名のつくものが好きだったが、若いときは全部買う金がない。アポリネール1冊、エリオット2冊、ベルクソン1冊、ヴィトゲンシュタイン2冊、ヴァージニア・ウルフ4冊、サルトル半分と本棚に入れていてもさみしい。ただプルースト全集とヴァレリー全集カイエ篇、西脇順三郎は無理してでも全部揃えた。エリオットはあとで全部揃えたが別にいらなかった。プルーストの「失われた時を求めて」は文庫が出て、そちらで全部読んだ。ヴァレリー、西脇はたぶん開くとパリパリいうと思う。全部読んだのはシェイクスピア、カフカの小説、魯迅の小説。カフカの手紙と魯迅の評論はそれ以上にあるから全集読んだと言えない。去年何十年ぶりかで聖書を最初から読もうとチャレンジ。昔面白くなくてやめた「レビ記」「民数記」も興味深く読めてこれは行けるかなと思ったら、まだ「ヨシュア記」にたどり着けず。神への道は長い。