70年代中頃ラザール・ベルマンが出てきたとき、もちろんレコード会社の思惑、宣伝もあるのだけどセンセーショナルにものすごいテクニックをもったピアニストと紹介され、リストの「超絶技巧練習曲集」がレコードで出た。宣伝された上にふだんクラシックファンでもあまり聴かない「超絶技巧練習曲集」という聞くからに難しそうな曲だと買ってみようかと思う。ブームに乗って来日もしたので前の席を取ってどれだけすごい動きをするのかと見に行った。冷静に考えたらクラシックのピアニスト、みんなと同じ曲を演奏する。たとえばラフマニノフをふつう10分かかるところ5分で弾けたとしてもそれは音楽を聴かせるのではなく、ジャンルがサーカス、見世物になってしまう。そんなこと演奏家がのって弾くならともかくそれを見せるために弾くのは不可能に近い。そんなことできてもいずれ飽きられる。事実ベルマンはグラムフォンに何枚か入れたがいつの間にか消えた。リヒテルにもギレリスにもなれなかった。しかもその超絶技巧のレコード、60年代に録音された古い物だった。レコードと同じジャケットで一度CDになってからしばらく手に入らない時期があり、そうなるとオークションに高値で出てくるが値段見て笑った。レコードもとっくに売って懐かしい気持ちはあるけど、悪いがそんなピアニストではない。今は何でも手に入らないというと高くなり、また高くても欲しいというマニアがいるから成り立つのだろう。そんなこと考えながら「超絶技巧練習曲集」を聴き返しているのだが、他のピアニストの演奏を聴いたことないものだからどこがすごいのかわからないのは今も昔も変わらない。他はもっとゆっくりでもっと下手なのか?ベルマンが悪いわけではないけれど半分も聴いたら腹一杯になってきた。
1日でも出る用事があると、すべて狂ってしまう。テレビでドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語録画がたまってるのを観て、中断した箱物のCDを聴きだし、つまらない音楽をかけているうちに本を読み、全巻観ようと続けている「コンバット」「刑事コロンボ」はどこまで進んだか気になりながらもスカパーのメーデーを観て、時にはビートルズやT.S.エリオットのことを考え、そして思う。そうだブログ更新していないから書かないと。それを夕食が終わったあとから寝るまでにこなす。家では酒は飲まないから眠くなることはないが、たまには好きなグールドを聴いていてもコルトレーンのうるさいのを聴いていてもぐっすり眠ってしまうことがある。こうして1日は過ぎてゆく。「四月は残酷極まる月だ」不毛の時代にもそれでも生物は生まれ成長するからだ。自分は老人だとは思っていないが、12月今年も終わりと思うと一つ一つ人生が削られていくような気がする。まだ一人で旅行に行く体力はある。暗いところで読みづらくなってきたが、まだ眼鏡なしで文庫本を読める。「君にも僕にも暇がある。まだ、百度も決断をしぶり、見てから、百度も見なおす暇がある。」山のようなCDや本、DVDは家族になんと言われようが、まだ買い続けていくだろう。アップル系の電子書籍だがウォレス・スティーブンスの全詩集は出ているのにT.S.エリオットは「プルーフロック」と「荒地」くらいしか出ていない。せっかくだからいろいろ調べてみたら、ギンズバークは全詩集出てる。それはわかる。アッシュベリ、ブライ、オルソン、レヴァトフといったところはほとんど出ていない。W・C・ウィリアムズなんてかけらもなかった。いいよ、電子書籍でなんか読まないからとそういう問題ではない。ジョイスはほぼ全部しかも無料で手に入った。これは便利、といっても参照にするくらいでまともに全部なんか読まないが。フランシス・ポンジュはどうだろうと探すとほぼなし。ブライが英訳しているようだがブライならペーパーで買う。西脇順三郎もなし。シェイクスピアは全部無料で出てるので全部ダウンロードしてあるが古い英語なのでパラパラとは読めない。棚にある本、CD、映画が全部iPadに入ってしまえば部屋は相当きれいになる。死んだときもそのiPadを棺に入れてくれればいいのだから家族も楽だろう。「太陽はまだ熱く燃えていた・・」ランボーはもう読めない。