And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

笑いの研究

2015-12-20 00:13:43 | 日記
「失われた時を求めて」で面白いのが、社交界の気取った男女の会話がどれだけトンチンカンかをバカにしながら書いているところ。ただそれにはある程度人物をわかっていないと面白さがわからないのだが、膨大な登場人物からそのときに中心となる人物を理解しなければならないのが大変といえば大変。「私」はおかしな人間たちを客観的に覗いているに過ぎず、ならば誰が主人公なのだろう。「私」はアルベルチーヌという女性は同性愛でないかと疑いながら付き合っていくなんて他の小説には考えられないシチュエーション。しかも同性愛の男爵が出てきたりと。今の時代ならそういう小説があっても何も驚かないが、20世紀の初めオスカー・ワイルドが同性との関係で投獄さたような時代に書かれたのは驚きで、しかもそれが20世紀を代表する小説として認められるのだから。「ユリシーズ」も出版当時猥褻と発禁になったなど、これも今では信じられないこと。「失われた時を求めて」はそれに加えて芸術、歴史などに関する話が膨大でいちいち注釈を読むのは面倒だが全部飛ばしてしまうと面白さを半分捨てることになる。もしくはある人物にどうでもいい話を延々とさせることで、うんざりとする「私」の気持ちを読者に味あわせるとか、きどってしゃべってるつもりが的外れで笑われてるとか今の社会にも必ずいそうな人間の描写がうまい。学生の時読み始める前に研究書を調べてストーリーもファイルにコピーして読み始めたが、1章で話が終わって次の場面という展開ではなく、あれいつの間にパーティに行ったのと思うくらい話が変わったかと思うと、何百ページもサロンから動かなかったりとストーリーは大きな流れの中の一部でしかない。なので筋書きのコピーなどなんの役にも立たなかった。1年で読めるかと思ったら2年かかってしかも何が何だかわからなかった。最終「見出された時」ですべてが明らかになると書いてあり、推理小説のように解き明かされるのかと思いきや最後になってもただ字を追ってるだけ。今思うと当たり前だ、それぞれの人物像が頭にないと、どうなったかなんてわかるわけがない。当時は単行本2段で今見ると小さな字。面白いと読むようになったのは鈴木道彦訳しかも単行本も全部買ったのだが読まなくて文庫本になってから。訳も前は共同訳だったので、読みやすく字も大きくなってというのはあるかもしれない。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」は止まったまま。これも文庫で出してよ。



シンバルのためのデュエット

2015-12-16 09:01:24 | 日記
昔、鍵谷幸信という慶応の先生が音楽エッセイを書いていた。ジャンルは現代音楽とジャズ。「春の祭典」を聴きまくってあれがこれがとか、「句読点のないサウンド」という題でまだ有名になる前のミニマルミュージックを紹介したり自分の好きなジャンル限定で書くのはいいが、セシル・テイラーを褒めてその対照としてオスカー・ピーターソンをけなしたりとか、よく言えば個性のある悪くいえば偏見に満ちた文章だったが、文章はうまくてつい引き込まれて読んでしまった。周りから人間的にもクセのあるように書かれていたからいい印象はないのだが、音楽エッセイの中で自分の専門の西脇順三郎、エリオット、W・C・ウィリアムズなどをうまく引用したので、こちらも西脇って誰と調べたりするようになった。そういう面では自分だけではなく、文章を読んでアメリカ現代詩に興味を持った読者はたくさんいただろう。音楽を利用して自分の専門を広めた意味ではその分野で感謝されてもいいのかもしれない。反発しながらも文章読んでいたけれど別に思い出したい訳ではない、ジョン・ケージのことを書こうと思って思いついただけだ。ケージはこの先生の文章読む前から知っていた。前にも書いたかもしれないが、ケージのレコード買って針おろしたとき中身違ったレコードはいってると思った。突然新世界の第4楽章が鳴りだしたから。ブーレーズ指揮で弦楽六重奏版「浄夜」を聴いたときあっ回転数間違ったと思ったのと同じ衝撃だった。今はもう歳もとって現代音楽でもちょっとやそっとじゃ驚かないが、何かに触れて驚くことができる年代に羨ましさを感じる。ケージを日本に紹介した作曲家一柳慧、奥さんだったのがオノヨーコでそのヨーコから影響を受けたジョン・レノンが「レボリューション9」というケージのテープ音楽のイミテーションみたいなのを作った。それ自体はくだらないと思うのだが、ビートルズの名前で出したかったというレノンの話には納得できる。ジョン・レノン名義で出したって何の意味もない。ケージで一番有名なピアノの前に黙って座って、人のざわつく声や周りから聞こえる音を『音楽』とした「4分33秒」がレコードになったときもびっくりした。そのレコードには「ラジオ音楽」や「マース・カニンガムの62メゾスティックス」のような個性的な音楽も入っていたから、なおさら衝撃だった。もちろん普通のレコード店にはなく、池袋のアールヴィヴァンで買ったと思う。そのマース・カニンガムの曲すごいのはケージも現代音楽も知らなくても、聴けば誰もが大笑いすること。未来派音楽の音声詩のようなもの。現代音楽も相当いろいろなレコードを買ったがクセナキス、リゲティなど有名どこを除くとほぼつまらなく、大半はゴミだったこと。ジョン・レノンが初期にオノ・ヨーコと作ったものなどゴミ以下。大半の人にはケージもゴミだろう。自分にはテレビで流れる品のない音楽よりずっと優しく聞こえるのだが。


ノーマン・メイラーのような広告

2015-12-14 21:19:26 | 日記
80年代以降のマイルスは晩年のフェリーニ映画と同じでなくてもよかった、もっといえばないほうがよかったのではと思う。優秀な若手を相変わらず採用してバックはのりまくるのだけど、弱々しいトランペットで失速してしまう。かつてのような激しい音楽はできず、そこらのフュージョンなんかとは比べものにならない音楽を作るのだが、それはジャズの終焉そのものだった。と深刻に書くほどマイルスを好きだったことは一度もない。コロンビアのコンプリートを聴き終えて、それぞれの時代面白かったけど80年に復帰してから急激に失速したなと順番で聴いていくとよくわかった、ただそれだけ。では好きなチャーリー・ミンガスやジェリー・マリガンはそういう聴き方するかといったらしない。音楽に変化はあってもマイルスのように50年代と70年代が全く違った音楽になっていないから。そういう面ではビル・エヴァンスなどレパートリー、メンバーが替わっているくらいで中身はほとんど変わっていない。それなのに何十枚どころか手に入る物はすべて揃えてまんべんなく聴いてるとはいえないが、それでも飽きずに聴いている。飽きずに聴けるのがジャズだ。ビートルズでさえ本当にいい音楽を作ったのは5年。仲良くやっていたってあれ以上は無理だっただろう。解散して個々それなりの音楽を演奏したが、驚くべき音楽など作れなかった。そこらのロックならよくて2,3年、それ以上は名前だけで売る。金が山ほど入ってそれぞれわがままになり、そのうちけんか別れ。金稼ぐにはヒット曲出したメンバーが集まって再結成とうって昔のヒット曲を歌う。ジョン・レノンが早く死んだのもあるが唯一そんなことしなかったのがビートルズ。ポール・サイモンが自分の才能の枯渇を恐れていたという。枯渇どころかサイモンとガーファンクル時代とは全く別の音楽でまた大ヒットさせた。ボブ・ディランがアコースティックギターでプロテストソングを歌い続けていたらこんなに有名になっていなかっただろう。ロックやポピュラーは変化しなければ飽きられるが、本当にいい音楽を作れる時期は限られる。飽きないのがジャズ。黄金時代のジャズミュージシャンは早死にが多いことももしかしたら飽きられなかった要因かも。いい悪いそれぞれ出してきたがチック・コリアやキース・ジャレットは40年聴き続けている。レコード、CDと新譜を出し続けているから。不満は一番好きなギル・エヴァンス、CDになっていないレコード何枚もあること。4回の来日で3回聴きに行けたことはよかったが、スイートベイジルでも聴いてみたかったな。パンフレットにもらったサインどこかにあるはずだ。

夜の静けさの中で

2015-12-12 00:56:33 | 日記
チャーリー・パーカーが演奏する「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」のリハーサルテイクを聴くと、この曲はオーケストラ、コーラスそしてパーカーを含むカルテットが一緒のスタジオに入って、せえので演奏したことがわかる。今では信じられないスリル。今はデュエットなどどいうと絶対一緒に歌ってない、ライブといっても音をかぶせたり、テイクを切り貼りしたりなんて常識で聴いているものだから、たとえジャズといっても即興性が希薄になっている。だからジャズは廃れてしまったのだ。クラシックでもミスタッチの入ったライブなどどんどん出せばいいと思うのだけれど。クラシックこそ完璧な演奏を録音で作れてしまう。それでパーカーの時代はよかったでは話が終わってしまうが、自分を含むジャズファンがパーカーから70年代のマイルスまでをよく聴くのは「せえの」が聴けるからだろう。とはいってもマイルスだと60年代からいろいろ加工して4ビートで枯葉演奏する時代からは変わってきたが、それでも音楽として生きていた。ジャズは死んだなどという安っぽい言葉で片付けてほしくない。アメリカでは人気あるらしいが日本では面白くないの一言で片付けられたウィントン・マルサリス。フリージャズは好きだったのだが、セシル・テイラー、オーネット・コールマンはどうもエセのような気がして好きになれなかった。でももう少し聴けば好きになるかと思い、両方とも手に入る物は全部くらい揃えたがやはり面白くない。オスカー・ピーターソンもそう。バカにしていたけど偏見を取り去ってと思いそこそこ買ってはみたがやはり面白くない。ウィントン・マルサリスも同じ。どれか聴いたら好きになるのではとずっと思っていたが何十年経っても好きになることはなかった。ウィントン・マルサリスの音楽はすべてが正方形。クラシックでいえばポリーニ、アルバンベルク四重奏団と一緒。ポリーニはグラムフォンでデビューしたときは新鮮だったけど、歳をとるにつれテープで作られた音楽だとわかるようになった。同じテープで編集でもグールドは面白いのに。ウィントン・マルサリスのトランペットはうまい。うまければ面白いというのが音楽ではない。ロックの好きな人間があのグループはテクがないからだめみたいなこという奴がいる。うまければいいと思っているのだろうか。確かにモンキーズのようにレコードでは影武者が演奏していて、コンサートするのに急遽練習したが、ひどくて聴けたものではなかったという例もある。マイルスよりうまいトランペッターはいくらでもいたのにマイルスが抜き出たのがいい例だ。ヴァイオリン協奏曲とかで指の衰えが感じられるとかいう評論家がいるけど、お前そこまで聴き取れるのかと思うと同時に今の演奏はというか今の録音はそういうのは一切ないと思う。ポリーニも80,90歳になっても完璧な演奏のCDが出てくることだろう。と思うとパーカー、ビリー・ホリディ、バド・パウエル、レスター・ヤングなど晩年のぼろぼろの演奏は今まで聴く必要ないと思っていたが、あえて聴く楽しみがあるということか。




君の名は

2015-12-08 22:44:12 | 日記
やはりベルイマンだ。記憶にあるのがー「ある結婚の風景」はテレビで観た。元々テレビ版が先だから。「叫びとささやき」は映画館で観たのだけれど、リバイバルかもしれない。「秋のソナタ」と「ファニーとアレクサンデル」はロードショーで観た。それだけだ、観に行ったのは。リバイバルを上映する映画館でリクエストとかしたけれど、そう簡単にベルイマンは上映してくれなかった。ビデオとLDでけっこうな本数出たので観ることができた。「野いちご」や「第七の封印」がいいのはわかっていたのだが、「魔術師」LDで観て不思議な映画だなと思った。ベルイマンのどの流れにも属さない、男装した女性が出てきたりと何なんだろうと。でもそれ1度だけでDVDで出ても最近はブルーレイにもなったが観ていない。ベルイマンはDVDで8割方出たけれど、ほとんどLDで観ているので買っても観ていない。ブニュエルはLDでそれほど出なかったのでDVDボックスで出た時それなりに観たがベルイマンだけではなく、ヴィスコンティもフェリーニもLDで観たものはDVDで買っても観ていない。ウッディ・アレンなど映画館で上映され翌年くらいにDVDになるが、DVDで観返したことがない。こんな好きな監督でさえそうなのだから、たいしたことなかったと山積みにしてあるDVDなど一生観ることはないであろう。その上暇なとき観ようと思っているスカパー映画チャンネルの録画もの、懐かしい昔のテレビシリーズ物のDVDがあり、あと100年生きることになっても観終わることはできないだろう。ジャケットが大きく解説が読みやすい以外何の役にも立たないLDは場所を取っているし、仮に売れたとしても代わりに入れられる物はレコードしかなく中古レコードもそんな買うことないのでそのまま。しかも観ることないとその前に本やCDを積み上げているのでたまにLDのジャケットを見たくても見ることができない。「野いちご」のジャケットとか思い出すと当時も思い出すのだが、あるのに思い出というのは何か悔しいが全部どけて出すだけの労力をかけるほどの物でもない。買って何年もしたものはどれであれ、高かろうが安かろうが懐かしさという自分の嫌いな言葉しか出てこない。滅多にテレビは観ないが、たまについているのを観ると自分より若いタレントがこれ懐かしいとか言うのを聞くとぞっとする。ベルイマンのことを書こうと思って、また大きくそれてしまった。「野いちご」をベルイマンが作ったのが40にもならないくらい。そのくらいの年齢で死とか老いることに向き合い映画を作ったことに驚くしかない。自分は若いときからベルイマンに興味を持ってきたが、今やっと「野いちご」と向き合える年齢になったのではないだろうか。もはや自分はイサクが途中で会う若者たちの年齢ではないのだから。「ファニーとアレクサンデル」のアレクサンデルがどうしても覚えられない。アレキサンデルだったか、アレクサンドルだったか。