「失われた時を求めて」で面白いのが、社交界の気取った男女の会話がどれだけトンチンカンかをバカにしながら書いているところ。ただそれにはある程度人物をわかっていないと面白さがわからないのだが、膨大な登場人物からそのときに中心となる人物を理解しなければならないのが大変といえば大変。「私」はおかしな人間たちを客観的に覗いているに過ぎず、ならば誰が主人公なのだろう。「私」はアルベルチーヌという女性は同性愛でないかと疑いながら付き合っていくなんて他の小説には考えられないシチュエーション。しかも同性愛の男爵が出てきたりと。今の時代ならそういう小説があっても何も驚かないが、20世紀の初めオスカー・ワイルドが同性との関係で投獄さたような時代に書かれたのは驚きで、しかもそれが20世紀を代表する小説として認められるのだから。「ユリシーズ」も出版当時猥褻と発禁になったなど、これも今では信じられないこと。「失われた時を求めて」はそれに加えて芸術、歴史などに関する話が膨大でいちいち注釈を読むのは面倒だが全部飛ばしてしまうと面白さを半分捨てることになる。もしくはある人物にどうでもいい話を延々とさせることで、うんざりとする「私」の気持ちを読者に味あわせるとか、きどってしゃべってるつもりが的外れで笑われてるとか今の社会にも必ずいそうな人間の描写がうまい。学生の時読み始める前に研究書を調べてストーリーもファイルにコピーして読み始めたが、1章で話が終わって次の場面という展開ではなく、あれいつの間にパーティに行ったのと思うくらい話が変わったかと思うと、何百ページもサロンから動かなかったりとストーリーは大きな流れの中の一部でしかない。なので筋書きのコピーなどなんの役にも立たなかった。1年で読めるかと思ったら2年かかってしかも何が何だかわからなかった。最終「見出された時」ですべてが明らかになると書いてあり、推理小説のように解き明かされるのかと思いきや最後になってもただ字を追ってるだけ。今思うと当たり前だ、それぞれの人物像が頭にないと、どうなったかなんてわかるわけがない。当時は単行本2段で今見ると小さな字。面白いと読むようになったのは鈴木道彦訳しかも単行本も全部買ったのだが読まなくて文庫本になってから。訳も前は共同訳だったので、読みやすく字も大きくなってというのはあるかもしれない。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」は止まったまま。これも文庫で出してよ。
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