And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

秘められた音に

2015-12-20 23:04:42 | 日記
推理小説も最初は夢中になって読むのだが有名なのを何冊か読むとパターンがわかってきて、最初に疑われる人間はシロとか召使いなどは犯人にならないとかアリバイがはっきりしてると逆に怪しいとかわかって読むので、犯人わかってもそうだろうになってしまう。それは推理小説全盛のクリスティ、クイーン、カー、ダインなどの場合。そうなると面白くなくなるので、次に手を出すパターンは清張か。「点と線」「ゼロの焦点」など面白いが、実際にあった事件の推理、帝銀事件、下山事件なども夢中になって読んだ。帝銀事件はとても平沢にはできない、下山事件は自殺ではないだろうとか。その中で読んで暗くなったのがスチュワーデス殺人事件。初版で表紙を聖書に似せて作って「黒い福音」という題をつけた。カトリックが悪いことをしていたのは中世の話で終わりではなかった。それに戦後間もない頃、まだ日本は欧米とはフェアプレイではなかったというのもあるだろう。その系統で面白かったのが高木彬光の「白昼の死角」これも戦後間もない頃実際にあった詐欺集団の話なので手形はこうパクるのかと変な勉強になった。角川で映画になり観て面白くて本を買い、他の作品も買い集めた。それらはすべて一度読むともう読むことはなく、売るかどこかいくかしたので手元になくなった。SFなら二度と読むことなくても棚に飾っておくのに。しかし愛着はSFより推理小説のほうがずっとあったのだ。その点、純文学は文庫でも粗末にすることなく学生の時読んだものも未だ手元にある。どこかにいっててもおかしくない学生時代に読んだ米川正夫訳のドストエフスキーなど手に取れるところに置いてある。最近買った本こそどこにあるかわからないものもある。文庫こそ自分の読書だと思う。「ユリシーズ」は文学全集しかなかったから単行本で読んだが、カフカもウルフも文庫で主要作品は読んだ。カミュも文庫で何冊も出てたがよかったのは「異邦人」だけで、それもあとで読み返すとがっかりした。今出てるかわからないが「エデンの東」も文庫4冊で出ていて、単行本なら絶対読まなかっただろう。単行本特に全集は汚してはいけないと思ってしまう。パラフィン紙など捨ててしまっていたが、大学教授がそのままにしているのを見て自分もそうしたら、なおさら開きづらくなって2.3ページ開いたらそのまましまうみたいになってしまった。でも今歳を重ねるとそのまましまっておいてどうすると思うのだが、重い本を読むためには読むぞという環境から作らなければならない。それより解説だけ読んでしまっておいて、文庫を音楽聴きながら気軽に読んだ方がいいだろうと思うと並べてある全集は一生読むことないのかと思ってしまう。





笑いの研究

2015-12-20 00:13:43 | 日記
「失われた時を求めて」で面白いのが、社交界の気取った男女の会話がどれだけトンチンカンかをバカにしながら書いているところ。ただそれにはある程度人物をわかっていないと面白さがわからないのだが、膨大な登場人物からそのときに中心となる人物を理解しなければならないのが大変といえば大変。「私」はおかしな人間たちを客観的に覗いているに過ぎず、ならば誰が主人公なのだろう。「私」はアルベルチーヌという女性は同性愛でないかと疑いながら付き合っていくなんて他の小説には考えられないシチュエーション。しかも同性愛の男爵が出てきたりと。今の時代ならそういう小説があっても何も驚かないが、20世紀の初めオスカー・ワイルドが同性との関係で投獄さたような時代に書かれたのは驚きで、しかもそれが20世紀を代表する小説として認められるのだから。「ユリシーズ」も出版当時猥褻と発禁になったなど、これも今では信じられないこと。「失われた時を求めて」はそれに加えて芸術、歴史などに関する話が膨大でいちいち注釈を読むのは面倒だが全部飛ばしてしまうと面白さを半分捨てることになる。もしくはある人物にどうでもいい話を延々とさせることで、うんざりとする「私」の気持ちを読者に味あわせるとか、きどってしゃべってるつもりが的外れで笑われてるとか今の社会にも必ずいそうな人間の描写がうまい。学生の時読み始める前に研究書を調べてストーリーもファイルにコピーして読み始めたが、1章で話が終わって次の場面という展開ではなく、あれいつの間にパーティに行ったのと思うくらい話が変わったかと思うと、何百ページもサロンから動かなかったりとストーリーは大きな流れの中の一部でしかない。なので筋書きのコピーなどなんの役にも立たなかった。1年で読めるかと思ったら2年かかってしかも何が何だかわからなかった。最終「見出された時」ですべてが明らかになると書いてあり、推理小説のように解き明かされるのかと思いきや最後になってもただ字を追ってるだけ。今思うと当たり前だ、それぞれの人物像が頭にないと、どうなったかなんてわかるわけがない。当時は単行本2段で今見ると小さな字。面白いと読むようになったのは鈴木道彦訳しかも単行本も全部買ったのだが読まなくて文庫本になってから。訳も前は共同訳だったので、読みやすく字も大きくなってというのはあるかもしれない。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」は止まったまま。これも文庫で出してよ。