夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

父の背中

2010-03-27 05:21:08 | Weblog
昨日、私の父が50有余年守り続けてきた仕事に終止符を打ちました。夜勤明けの体に鞭打って最後のお別れ会に出掛け、呂律も回らないくらい酔っ払った父を車で迎えにいきました。大勢の仲間たちに送り出され、それに号泣する父の姿を見ながら、仕事に掛けてきた情熱と誇りを見せつけられました。
生まれたときに既に父親、つまり私の祖父を亡くした父は、進学した高校を諦めて就職しました。2年は地元の自転車屋さんで働きましたが、料理に興味を持っていたため、18歳で名古屋に出稼ぎに出て来て、中区錦三丁目の「とんかつ&ステーキの八千代本店」に就職して腕を磨き、八千代本店が閉店するまで29年間とんかつ&ステーキにこだわって仕事をしてきました。ご縁があって今の東急インのレストランオルカに八千代の味を受け継いで戴くことになり、そこで22年間、再びとんかつに心血を注ぐことが出来ました。八千代本店で調理をしていた頃は私達家族のためには決して家でとんかつを作らなかったひとが、私が結婚した途端、嫁さんのためにはホイホイととんかつを作り、孫が生まれてからはデザートからとんかつ、ステーキ、シチュー、ハヤシライス、唐揚げなど、八千代メニューのオンパレード!息子のためには何も作らなくても嫁や孫のためには腕を振るうのかぃ!と皮肉を言ったことも数知れず。しかし、今にして思えば、それが父の精一杯の自己表現だったのだろうと思います。自慢のとんかつを食べさせることが、父に出来る最高の愛情表現だったのだろうと。
私も就職して20年になろうとしています。特別支援を必要とする子どもたちに、そしてそれを支える家族の人たちにとって、いつでもどんなときでも理解者であり、支えであり続けたいと思っています。私には父のように大勢のお客様に愛される味を生み出すことは出来ません。子供の頃、父が八千代本店の暖簾分けをさせて戴けるチャンスがあり、父は私に店を出したら後を継いでくれるかと聞いてきたことがあります。でも当時小学校4年の私には、既に小学校教師になるという夢がありました。父の申し出を断った時、父がとても悲しそうな顔をして、店を出しても後継ぎがいないのならやめた方がいい、と暖簾分けを断念したことを覚えています。そのことで私が父の夢を奪ってしまったのだと、今でもずっと心残りです。
私は父の技術を受け継ぐことは出来なかったけど、父の仕事に掛けてきた情熱と誇りはしっかり受け継ぐことができたと思っています。それを評価するのは誰でもない、つばさの子どもたちとその家族の方々だけど、今の自分に出来ることを全力でやり続けて、その姿から、我が子が何かを感じ取ってくれたらと思います。
父の引退に際して今までずっと文にして残しておきたかったことを書いてみました。私事ばかりでごめんなさい。今日からは八千代本店の味を独り占めならぬ家族占め出来る喜びでいっぱいです!
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