<続き>
今回は須恵器と玉類及び古墳から出土した青銅鏡を紹介する。
豊富な装飾物は、やや驚きの眼差しでみた。広島県北部の方々には失礼な表現ながら、中国山地の山奥でよくも写真のような品々を作ったものである。またビーズの首飾りは、今日北タイの少数民族が身に着けるものと極似している。古代の風俗にグローバルスタンダードが存在したであろうか?
<続く>
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今回は須恵器と玉類及び古墳から出土した青銅鏡を紹介する。
豊富な装飾物は、やや驚きの眼差しでみた。広島県北部の方々には失礼な表現ながら、中国山地の山奥でよくも写真のような品々を作ったものである。またビーズの首飾りは、今日北タイの少数民族が身に着けるものと極似している。古代の風俗にグローバルスタンダードが存在したであろうか?
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以下、みよし風土記の丘ミュージアム展示の弥生と古墳時代の鉄製品を見て考えたことである。
展示鉄製品には数々の種類があり、農作業に限らず日常生活は随分効率的になり、武器・武具類も強度を増した。ミュージアムの屋外には、6世紀後半と云われる戸の丸山製鉄炉(たたら製鉄)址が、矩形の竪穴建物と共に復元展示されている。
一般的に日本での製鉄の開始は、5-6世紀の古墳時代と云われているが、当該風土記の丘ミュージアム展示の弥生期・西願寺墳墓群の鉄製品を見ていると、瀬戸内海や日本海から離れた内陸に、よくぞ存在するものだと感心する。
その相当な距離を弥生時代に朝鮮半島から、準構造船で出雲の潟に運び、そこから三次盆地に陸送したのであろう。いくら生活に不可欠な最先端の鉄製器具とは云え、重量物を内陸奥深く・・・果たしてそこまで行うのか・・・との単純な想いが過ぎる。磨製石器なり青銅製品で補うことは可能であろう・・・なのに鉄器である。
そこで考えられるのは、古墳時代を待たず弥生期に既に、製鉄が始まっていた可能性である。島根県邑南町日貫の湯谷悪谷遺跡は、山の頂に在る遺跡であるが、そこから弥生後期の竪穴住居跡とともに、近畿地方の土器や鉄滓(スラグ)が出土した。大陸から渡来した鉄器を溶かした時にできる鍛冶滓とは結晶の組成が違い、当時に日本で製鉄されていたことを示す精錬滓であるとの説が存在するという。
上掲のグーグルアースを見て頂くと、日貫は三次盆地同様に中国山地に在り、海岸線からは直線で40km以上の距離がある。このような山中に製鉄炉が存在したのである。
奥深い中国山地ではないが、広島県三原市八幡町小丸遺跡の製鉄炉は、平成2-3年の発掘調査の結果、3世紀のものと比定されている。製鉄炉跡の確認・分析の結果、製鉄があったと結論付けているようだ。
この古代の製鉄は直接製鉄法と呼び、鉄鉱石や砂鉄などを加熱、溶かさずに半溶融状態のまま還元して得られる海綿状の鉄や鉄塊を再度加熱して製錬・鍛造し不純物を取り除くと共に、炭素量も調整して鋼を得る方法である。これらはそれなりの技術を要することから、弥生期に渡海してきた人々の関与があったであろう・・・いずれにしても、国内生産できてこそ、弥生時代の大量の鉄製品の存在であろう。朝鮮半島からの輸入一辺倒の考え方では、この多量の鉄製品の存在は説明できない・・・というようなことを当該ミュージアムの弥生期・古墳時代の多くの鉄製品をみて考えたことである。
<了>
<続き>
引続き古墳時代の出土遺物を紹介する。
古墳時代に鳥は、霊を運ぶとされていたようである。記紀によると鳥は神々の世界と人々の世界を結び、神意を伝えるものとされていたようである。これは弥生期の木製鳥形肖形と同じ役割で、弥生期の人々の世界観の継承であろう。それは北タイ・アカ族のロッコン(集落入口の門・結界)の笠木の上に載る鳥形肖形と同じものである。
古墳時代の家形埴輪には、実に様々な形状の埴輪が存在する。そのさまざまな形状は何を意味するのか?・・・多くの研究者が追及していると思うが、一度検索してみることにする。
次回も引き続き古墳時代の出土遺物を紹介する。
<続く>
<続き>
展示されている古墳時代の出土遺物を紹介する。
残る古墳時代の展示遺物は次回も引き続き紹介する。
<続く>
<続き>
以下、矢谷遺跡以外から出土した弥生期の遺物を紹介する。
分銅形土製品の多くは吉備の地より出土する。三次盆地は、その近隣であるので、その影響であろう。
この分銅形土製品は、祭祀に用いられたとの説が一般的であるが、何の目的でどのように用いられたのであろうか?
<続き>