不定期連載として過去7回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。
〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95
〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f
〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858
〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da
〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48
〇北タイ陶磁に魅せられて:第6章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9a53e0ba73d6a5cc3d6861ac63722540
〇北タイ陶磁に魅せられて:第7章
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/75b7890deac00c77cc484f6df0e2eea4
過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の3回目(第8章)はインターキン古窯址群です。
〇序
中部タイのスコータイ、シーサッチャナーライ両窯については、内外の先達により調査・研究は精緻なものになっていますが、北タイについては未解明な点が多々残存しています。今回紹介するチェンマイ県メーテーン郡内のインターキン窯は、窯址の調査は行われましたが、そこで焼成された陶磁については、出土した陶片が少なく全貌が掴めたとは言い切れないまま今日に至っています。
そのような未解明の点はありますが、チェンマイから1時間余りの場所で、窯址には博物館も建っており、誰でも見学可能であることと経路も分かりやすいことから、一度出掛けられてはどうでしょうか。
〇窯址発掘の経緯
この窯址は1994年民家の敷地内で偶然に発見され、その敷地一帯をインターキン地区役所が買収し、1996年タイ芸術局によって発掘調査され、ここを古窯址博物館として、2006年12月25日に開館の運びとなったものです。
過去、この中世の窯場は”ムアン・ケーン”と呼ばれていました。その窯は丘の傾斜に設置されており、幾つかの煙突状の痕跡が地表に現れていました。そこを発掘すると、地表から2m下に窯が横たわっており、厚板状の粘土で固めたもので構築されていました。全体的な窯形状はサンカンペーン窯と類似しています。焼成物は明るい青磁、緑がかった褐色釉(暗緑釉)の陶磁で、双方ともに同じ形状の壷がありました。そして壷のほかに盤、鉢、蓋付きの壷が出土しました。このインターキンの窯から採取した炭化物を、C-14炭素年代法で年代分析すると1420-1445年を示し、それはサ-ムファンケーン王の時代を示していることになります。
(発掘の経緯を示した説明板)
窯址は覆屋があり現地に立つと、5基確認できました。発掘は部分的であり、まだ埋没している未発見の窯もあろうかと想像できます。
(左右の覆屋の下が窯址)
全貌が見える形で発掘されているのは1基で、その幅は約2.2m、長さは3.7m程度かと思われ、僅かに地表を掘り下げ、丘の斜面にそって構築され、地形の関係から焚口は南向きとなっています。その形状はサンカンペーン古窯と同じ半地下式の横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)、いわゆる穴窯です。
〇開窯の時代背景
C-14炭素年代分析で1420-1445年を示したと云われていますが、これはランナー王朝第8代・サームファンケーン王(即位1402-1441年)の時代に相当します。「チェンマイ年代記」は後世の成立で、記録内容に全幅の信頼はおけませんが、それによると、サームファンケーン王はパンナー・ファンケーン(現:チェンマイ県メーテーン郡)で生まれたとされています。即位後1404年と1405年の二回にわたり雲南のホー族が、ランナー王国に侵攻しましたが、サームファンケーン王は3万の兵でホー族を攻撃し、雲南の景洪まで追い返し、中国の朝貢国から脱しました。その後、ランナー朝は繁栄を継続します。その絶頂期とも云えるサームファンケーン王に縁深いメーテーン郡のインターキン地区に窯があったことになりますが、その築窯はサンカンペーン窯より、随分時代が下ることになります。従ってサンカンペーン窯の影響を少なからず受けていることになります。
〇予備知識を習得するには
窯址の発見が近年で、本格的発掘調査も10数年前のことであり、分からない点が多々存在します。合わせて窯址から出土した陶片類も少量で詳細が未だ不明です。
またインターキン焼を展示している施設は、現地の窯址博物館しかありません。その現地博物館も展示内容が貧弱です。従って刊行物に頼ることになりますが、それもタイ芸術局発刊のタイ語による調査報告しかありません。従って窯址訪問前の予備知識習得は困難です。
(タイ芸術局発刊の調査報告)
〇博物館の展示内容と焼成陶磁
窯址の前に建つ博物館の正式名称はインターキン窯博物館(พิพิธภัณฑ์แหล่งเตาเผาอินทขิลเมืองแกน)となっています。それは立派な建物です。
(窯址博物館)
展示室には発掘陶磁器の破片が展示してありますが、一辺が4~5cm程度の断片で、そこからは完器の形状を想定することはできません。さらに残念ながら最近、博物館は施錠されており、その破片さえ見ることはできません。その代りと思いますが博物館の外壁に出土陶片の写真ボードが複数掲げられています。
(博物館内の展示陶片)
(出土陶片写真ボードの一部)
以前の資料館の陶片展示と、最近の外壁の写真展示を見ていると、外側が褐色釉で内部に青磁釉の壺片や、カベットに放射状の刻線が入る盤片も出土しているようです。
発掘はタイ芸術局が担当し、その説明板の内容を掲載しますと、壷、盤、鉢、蓋付き壷が焼成され、オリーブグリーンや緑がかった褐色釉に覆われていたと説明されています。なるほど破片をみるとそのような痕跡が認められるものの、破片で釉薬は剥落したりカセ(注釈)ており、タイ芸術局調査報告の記述内容を十分に確認できなかったのが残念です。
サーヤン教授の報告書によると、鋸歯の印花文も存在していたようですが、それ以外にどのような装飾文様があったのか、必要な情報が記載されておりません。但し盤については、サンカンペーンと区別が困難な事柄が記述されており、今日サンカンペーン陶磁として流通している盤に、紛れ込んでいる可能性があります。以上をまとめますと、次のようになります。
使われた釉薬の種類
褐釉、黒釉、暗緑釉、青磁釉、灰釉
焼成された焼物の種類
壺、蓋付壺、皿、盤、
装飾文様・・・装飾陶磁片の出土が僅かであり、其の中で下記の文様が確認されています
印花文(鋸歯文・きょしもん)、鎬文、円形形状の貼花文
従来は博物館の見学も可能でしたが、2015年に訪問した時は閉鎖されていました。今日、博物館内の見学が可能かどうか不明です。
〇さあ!窯址へ行ってみよう
先ず発掘された窯址から紹介します。
(窯後部と煙突の部分的発掘)
(2つの窯が隣り合わせで部分的な発掘)
(窯後部と煙突の部分的発掘)
(表紙と同じ窯で別アングルから撮影)
窯址現場を実見して感じたのは、サンカンペーン古窯とほぼ完全に一致した印象です。あくまでも想像で確証はありませんが、サンカンペーンからの陶工により築かれ、似たような陶磁生産がなされたものと考えられます。
興味をお持ちの方のために、インターキン窯址への道程を紹介しておきます。チェンマイから国道107号を北上、メーテンの市街を経由してメーテン川を渡り、約200mでメーガット・ダムに至る道の分岐をメーガット・ダム方向に右折します。ここで国道107号と別れることになります。なおこの右折箇所の国道107号の左肩に案内板があります。
(国道掲示の案内板)
これを観たら右折してください。右折すると長い緩やかなのぼりになり、そして長い降り坂の途中にインターキン地区のゲートを通過します。通過して1km程度行くと平地になり、写真の道路標識を見ることになります。
(道路標識:黄色で囲ったバン・サンパトンが目的地)
そこを左折すると、人工の小さなクリーク(幅4-5m程度)が流れており、そのクリーク沿いに北上すると同時にワット・パーデンが見えてきますが、その前をクリーク沿いに更に6-7km北上すると、小さな十字路に至ります(十字路の右角は工場)。そこを左折して20ー30m先のT字路を右折し,暫く行くとワット・インターキンを見ることができます。この寺院をみて200m程度行くと、目的の窯址と博物館の裏手に到達します。
(裏門)
(正門)
博物館の裏手にも入り口があり窯址へ行くことは可能ですが正門へ至るには、その先を迂回することになります。
〇穴窯の系譜
今号までに7つの窯址群の窯址(穴窯)を紹介しましたが、最後にその穴窯の系譜を考察し、筆を置きたいと思います。穴窯を正式には横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)と呼びます。北タイには地下式、半地下式、地上式の横焔式単室窯が存在します。それでは北タイのこれらの窯は独自に誕生したのでしょうか?
メンライ王がランナー王国を1292年に建国した当時、北方の雲南を足掛かり元の南下圧力を受けていました。そのことは中国側史書の元史に軍征記事が記されていることから明らかです。其の時に陶工と共に穴窯も伝播した可能性が考えられますが、残念なことに雲南では今日まで穴窯の存在が明らかになっていません。
オーストラリア・アデレード大学のドン・ハイン教授は東南アジア陶磁研究の泰斗ですが、教授によれば穴窯の端緒は、紀元前の中国にあるとの論文が発表されています。その穴窯が雲南経由ではなく、北ベトナムからランサーン王国前期の北ラオス経由で、北タイにもたらされた可能性を指摘しています。
(ドゥオンサー古窯 筆者現地にて)
上の写真は、2013年にベトナム・ハノイ郊外のバクニン省のドゥオンサー窯址を訪問した時に撮影したものです。時代は9~10世紀のもので、これがランサーン王国前期のルアンプラバーンを経由(ルアンプラバーン近郊に、14世紀の穴窯址が存在)して北タイに伝播したと思われますが、北タイの窯址形状はドゥオンサー古窯とは少しことなり、形式は同じながら北タイ独自のスタイルに変化したと思われます。
注釈・カセ 鹿背と漢字表記する。釉薬表面のガラス質が劣化し光沢を失っている様を云う。
以上、不定期連載として8回に渡り、北タイ陶磁の魅力と窯址訪問記を紹介してきました。幸いにも北タイの日本語フリー情報誌『Chao』に寄稿させていただきました。その情報誌ご希望の方は、過去に紹介した方法で入手願いたいと思います。
尚、ブログ掲載時期については明言できませんが、イサーンの所謂クメール陶磁の窯址、中部タイの例えばメナムノイ窯址等の、北タイ以外のタイ王国領域の諸古窯址紹介のブログを掲載する予定です。
<完了>