世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ名刹巡礼#5:ワット・ジェットヨート

2016-06-24 07:04:04 | 北タイの寺院
<Wat Jet Yod : ワット・ジェットヨート>

旧市街北西部に位置している寺院で、1455年9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)によって建立されたもので、1477年同王によって仏典結集が行われ三蔵が編纂された。
山門は写真の如く、建立後500年を経過し崩壊が激しい。日本はこのような文化財保護に力を入れて保存の一助ができないものかと思う。
古くかつ立派な仏塔がある。釈迦が悟りを開いた地、インドのブッタガヤやミャンマーのパガンにある、マハーボディ寺院(大菩提樹寺)をモデルにしたと云われ、Jet Yod(7つの尖塔)の名の通り、中央の高い仏塔を6基の低い仏塔が囲んでいる。それはデバター(女神像)の浮彫がある長方形平面の高い基壇の上に、仏足跡モチーフの装飾があるピラミッド型のシカラ(塔状の屋根)、それを囲む四方に尖塔型仏塔、前方に二つの釣鐘状仏塔が載っている。この仏塔は、日本であれば間違いなく国宝級であるが、保存工事がしてなく、レリーフ等は風雨による崩落が心配である。
境内には1487年建立のティローカラート王の遺灰を祀る仏塔があるほか、後世に建立された堂塔伽藍が囲み、現在も礼拝堂を建立中である。この新旧をとりまぜたコントラストはあまりにも不釣り合いのように見える。
一般的にタイ人の気質を語る言葉として、“古いものには感心はなく、新しもの好き”と云われる。確かに古い文化財と思われるようなものに、何の躊躇もなく新しい塗料を塗って化粧直ししている姿を散見する。彼らにとり新と旧の併存は違和感がないのであろう。




北タイ名刹巡礼#4:ワット・スワンドック

2016-06-23 07:25:17 | 北タイの寺院
<Wat Suan Dok:ワット・スワンドック>

場所は、チェンマイ大学医学部および、その附属病院の向かい側である。1383年6代・クーナー王(在位:1355-1385年)によって、宮殿の花園に建てられたと云われている。本堂には、1504年11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)へもたらされた高かさ4.7mの青銅で、降魔印を結ぶ仏坐像Phra Chao Kao Tueが安置されており、これはタイ全土で1、2を争う大きさだという。
創建時のものとされるスリランカ様式の仏塔には、スコータイから招かれた高僧スマナーによってもたらされた仏舎利が祀られている。
更には、王家の遺灰を納めた墓廟群と、1932年高僧クルーバーシーウィチャイによって修復を受けた。北タイ最大と云われる礼拝堂等々が増築された。

現地に立つと、墓廟群は白く多くの尖塔をもつ廟で、数も多く圧巻というより、別世界に来たとの印象である。また確かに礼拝堂は大きく雄大さを感じるが、寺院全体の印象は荘厳さに欠けるような気がする。








錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その4<最終回>

2016-06-22 07:08:57 | ミャンマー陶磁
<続き>

先に錫鉛釉緑彩盤の写真を3点掲載した。そのうち2点は鳥が主文様である。これはハムサ(ハンサ)と呼ぶ霊鳥で、白鳥ないしは白い鵞鳥で、ヒンズー教におけるブラフマー神の乗り物である。
つまり、Mon族の地はヒンズー教が流布された地で、モウラミャイン(モン州)の南であるマレー半島も同じである。彼の地は現在もヒンズー寺院とイスラムのモスクが共存する。マルタバンもモウラミャインも行った経験はない。過日、グーグルアースを見ていると、モウラミャインの南にヒンズー寺院の写真が掲載されていた。錫鉛釉緑彩盤に鳥文様が、多い理由が理解できる。
そのヒンズー寺院の対面に、独立峰とも呼ぶべき小高い岩山がある。その独立峰をナガ(蛇のナーガとは異なる)山と呼ぶらしい。とすれば、これも仏教徒のナガ族と関係があるのか? いずれにしても、これは須弥山に見立てられたものであろう・・・等と、暫く夢想の世界に遊ぶことができた。そのナガ山の写真をグーグルアースから借用して掲げておく。
自己満足と云うか夢想・妄想の長文を綴ったが最後である。Kaw Don村の窯形状については、続報を待たなければならない。津田武徳氏はダゴン(ヤンゴン)の南で、ヤンゴンからフェリーで川を渡り、トワンテの手前に在るパヤジーの窯跡を発掘調査された(出典・東南アジアの古陶磁9:富山市佐藤記念美術館刊図録)。C-14年代法で測定した結果は16世紀中頃を示すという。このパヤジーの窯は、日干し煉瓦の横焔式地上窯で長さ15.9m、幅5.8mであったと記載されている。北タイのパーン、シーサッチャナーライ、スコータイの窯と似ているとも記載されている。
東南アジアの窯形状は、ほぼいずれも横焔式単室窯で、大きくは地上式と地下式の2系統に分かれる。その中で地上式は、大雑把ながら長方形と楕円形に分かれる。
(図上、黄色は横焔式単室窯の地下式、半地下式分布、青色は長方形の地上式、赤色は楕円形の地上式の各分布を示す)
以下、写真を御覧願いたい上からパーン・ポンデーン窯址(チェンマイ国博へ移設復元)、シーサッチャナーライ窯址である(パヤジー窯址については、「東南アジアの古陶磁(9):富山市佐藤記念美術館発刊」を参照願いたい)。

時代背景がやや異なることもあり、同一視はできないが、窯形状は似ていると云わざるを得なく、同じような楕円形の横焔式単室窯の地上式である。Kaw Don村の窯址はどのようであったろうか? 上の図のようにシーサッチャナーライ窯址と同じ、地上式で楕円形の横焔式単室窯であったろうと思われる。続報が待たれる。




                          <了>










錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その3

2016-06-21 07:40:21 | ミャンマー陶磁
<続き>

この時期(15-16世紀)の隣国はどうであったろうか。ランナーは9代・ティローカラート王(在位・1441-1487年)、10代・ヨートチェンラーイ王(在位・1487-1495年)、11代・ケーオ王(1495-1525年)の時代であった。
ティローカラート王の時、大越の黎太宗(レ・タイントン)はランサーン王国侵攻後ランナーへも侵入するが、逆にこれを追いベトナムまで撃退している。王は仏教保護に力を入れ、ワット・ジェットヨートで第8回世界結集を行い、仏教文化を花咲かせた名君で、その治政下はランナー朝で最も繁栄した。
次の10代王は可もなく不可もなしで、8年ほどの短命であったと云う。11代・ケーオ王は、カムペーンペットやチャリエン(シーサッチャナーライ)まで版図に加え、仏教保護に力を入れた名君で、仏教繁栄についての名声はペグーまで聞こえたという。
何やら時代は同期するのであろうか?ペグーが繁栄していた時、時を同じくしてランナーも最盛期を迎えていた。このような時であるからこそ、交易は活発になり、文化の交流も盛んであったろうと想定される。ランナーやチャリエン(シーサッチャナーライ)の陶磁技術とペグー王朝下の陶磁技術に、何らかの交流関係があったであろうと云えば、飛躍し過ぎであろうか? チャリエンの窯形状とパヤジーの窯形状の類似性をどのように考えればよいのであろうか?
ここでMon族とはどのような民族であるのか? 俄然興味が湧いてくるが、それと反比例して情報は少ない。Hmong族については、チェンマイに友人がいる。彼の顔つき肌の色は、日本人と差異はなく、Hmong族が倭族と類縁関係にあると云われても、違和感を覚えないが、Mon族はどうであろうか?
インターネットで種々検索するが、ヒットしない。唯一ウィキペディアに少女の写真が掲載されているので、それを借用して掲げておく。
Monと云えばドバラバティー。そのドバラバティーの仏像、Mon国家であったハリプンチャイ王国の仏像やテラコッタ像は太めで、左右が繋がる眉が印象的である。
        (ランプーン国博展示のMon様式のテラコッタ仏頭)
シンソープ女王は、若かりし頃、シャン族国家のアバに連れ去られたという。それなりの美形であったであろうが、まさか眉が繋がっていたとも思えず、空想の像が結べない。少女の写真を見ると、確かに眉は濃ゆくて幅広に見えなくもない。しかしMon様式の仏像ほどではない。よってシンソープ女王の容姿のイメージが、なかなか結べないでいる。
過去、冬季の6カ月間ハノイに滞在していた。同じサービスアパートに奥さんが日本人で、旦那がキンさんというビルマ族の人がいた。日本語堪能であった。そのキンさんが、ヤンゴンに民族村があり、Mon族住居や生活スタイルが見られるという。いつでも案内しますとのことであったが、本当のMon族に会いたければ、モウラミャイン(Mon州)に行く必要があろう・・・等々想いは巡るが、実現するかどうか靄っている。







                                 <続く>



錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その2

2016-06-20 07:44:48 | ミャンマー陶磁
<続き>

字面ばかりで恐縮である。
話しがやや飛んだので引き戻す。当該ブロガーがこの錫鉛釉緑彩陶で思い出すのは、関千里氏の著書「東南アジアの古美術」である。関氏の著述の中で次の2項目について、読後注目し今日に至っている。それは・・・、
1.錫鉛釉緑彩陶の幾何学文様には、イスラム時代の11世紀から15世紀にペルシャで作られた軟陶の焼物に装飾されているアラベスクの趣がある。さらにペルシャは白釉彩画や白釉藍彩の技法を持ち合わせていて、白釉緑彩陶に与えた影響は大きいように思われる。
2.白釉緑彩陶の緑彩を施した陶器は前期、中期、後期の三種類に分けられる。そして製作期間は僅かで50年、長くて100年かもしれない。
・・・と記されている。
Sumitr Pitiphat 教授は先日紹介した書籍で、これを15-16世紀としている。では錫鉛釉緑彩陶が焼成された時代は、どのような時代であったろうか。それは当該ブロガーが思うに、関千里氏が言い当てているように思われる。再び「東南アジアの古美術」P340から引用して書き進めたいが、一部他の資料も援用して記す。
"タイ族の一派であるシャン族が台頭しアバ王国を建国した。そのアバが下ビルマに食指を伸ばして、ペグー王国との戦乱が続くことになった。中でも14世紀末の覇権争いは40年余り続く。長年の抗争で両国は疲弊したが、ペグー朝の王位継承にまつわる紛糾で好機をつかんだアバの騎馬軍団がペグーになだれ込み、若くして寡婦となっていたペグー朝第8代ラーザーディリ王の娘・シンソープ王女を連れ去ってアバ王国のティハトゥ王の正室とした。
しかしこのことがアバ王室の一人の王妃を嫉妬へと駆り立て、ティハトゥ王は殺害された。以降、王室内の混乱に乗じて1430年、シンソープ王妃は二人のモン族僧侶の助けを受けアバ王国を脱出し、ペグーに帰還した。
1453年、ペグー王国では王位継承問題が発生したが、臣下はシンソープを擁立してビンニャチャンドーの即位名で王位に就けた。”女王の在位期間を関千里氏は1453-1459年と記すが、1453-1472年の19年間であったとも云われている。
“シンソープ女王の治世下、ペグーが国家の中心になり、インド洋を通した海上交易により繁栄する。東のマラッカ王国と西のインドとの交易である。当然のことながら、タイ諸国の交易も、タノントンチャイ山脈を横断して存在していた。ペグー王国はダゴンを外港として交易を行っていたが、ダゴンを交易港にする前はマルタバンが交易の中心であった。“
(中世ランナー王国と周辺国の交易図を掲げておく、チェンマイからはタークを経由してタノントンチャイ山脈を横断してマルタバンへ至るルートと、ファーンからムアンパンを経由してマルタバンへ至るルートが記載されている:チェンマイ民族博物館掲示)
交易品については・・“ペグー王国はマラッカ王国から、赤塗りの粗製陶器、水銀、銅、辰砂、緞子、通貨となるガンサを輸入していた。インドのグラジャードからは銅、水銀、辰砂、アヘン、織物が輸入されていたと云われている。”
話しを歴史に戻す。“シンソープ女王はアバ王国の逃避行を助けてくれた二人の僧侶のうち、ダンマゼーディーを還俗させ、娘婿に迎え国家の大事を任せて、高齢を理由に退位した。ダンマゼーディーはペグー朝14代王(在位1459-1492年)となった”・・・と関氏は記すが、別の書には15代王で在位1472-1492年と記している。
“ダンマゼーディー王は、多くの宗派対立を鎮め、宗教界を浄化し、長老をスリランカに派遣し、ヤルヤー二川の上流で具足戒受けさせた。このように宗教改革に努めた王であった。
しかし1492年、ダンマゼーディー王は王子ビンニャー・ランによって殺害され、16代ビンニャー・ラン2世王(在位・1492-1526年)として即位した。歴代の中で傑出した大王であったと云われている。
その後落日が訪れる。タウングー朝のダビンシュエティー王(在位・1531-1550年)がペグー王国を攻略し、占領したのは16代ビンニャー・ラン2世王が没後の1539年であった。更に1545年マルタバンを包囲して6か月後に陥落させた。しかしタウングー朝のダビンシュエティー王は、1550年モン族太守に謀殺された。ダビンシュエティー王のあとを継いだ名君・バイナウン王(在位・1551-1581年)は、1551年にペグー王国の反乱は鎮圧され、ここにペグー王国は滅亡した。“
関氏はこれらの認識の上にたち、以下のように纏められている(P342)。“想像の域を出ないが、シンソープ王妃の時代から、あるいはそれ以前から下ビルマにおいて白釉陶から緑釉陶製作の序曲が始まっていたのであろう。そしておそらく女王在位中に白釉に緑彩を施した陶器の誕生をみたものと思われる。
この時期ことに繁栄した下ビルマのモン文化は、ダンマゼーディー王の時代更に華やかさを増していたと想像される。従って官窯的性格を秘め、優れた輝きを放っている白釉緑彩陶の緑彩を施した初期作品群は、15世紀中頃に製作され、中期は15世紀後半、後期は16世紀タウングー朝のバイナウン王時代に入って終焉を迎えたものと思われる“・・・と締めくくられている。
ここで当該ブロガーの見解である。ペグー朝ではシンソープ女王までが、建国以降13代・166年で、一代当たり12.8年となる。最も繁栄した14代・シンソープ女王、15代ダンマゼーディー王、16代ビンニャー・ラン2世王までの3代の治世期間は73年で、一代当たり24.3年となる。一代当たりの治世期間をみても、この3代の王の時代に反映した様子が脳裏に浮かぶ。そしてインド、マラッカ王国の交易品に辰砂が含まれていたという。緑彩の顔料に使われていたと思われる。
シンソープ女王の在位期間は1453-1472年である。これを錫鉛釉緑彩陶の初期と考えたい。ダンマゼーディー王の在位期間は1472-1492年で、これを中期と考えたい。さらに後期にあたるのが、ビンニャー・ラン2世王の在位期間である1492-1526年にあてたいと考えている。そのように考えれば、Sumitr Pitiphat 教授が指摘する15-16世紀との見解と同じとなる。




                        <続く>