平塚川添遺跡は、筑後川中流の北岸に位置している。訪れたのは1年前の昨年10月であったが、桜がちらほら時季外れで咲いていた(ココ参照)。
パンフレットのように多重環濠集落で、幾つかの建物が想定復元されている。中には首長館も存在する。邪馬台国の時代の邪馬台国かどうかわ別にして、一つの中心であったことは確かであろう。
右に並ぶ二棟の高床建物は祭殿であるという。壁は板壁であるが、板校倉で復元されているようだ。奥の建物は首長館とのこと。西暦100年から200年にこのような建物が存在していたのである。やや驚きでもある。
隣接する学習館に展示されていた出土遺物である。展示はされていなかったが、ほかに広形銅矛の一部、銅鏃、小型倣製鏡、後漢鏡、貨泉などの青銅製品が出土している。
遺跡を訪れると、一面の筑後平野の真っただ中という印象で、弥生時代の当時も稲作地帯であったとの印象を受けた。
<了>
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