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卑弥呼は何者だ・その4(卑弥呼いや簸御子の冢)

2022-06-16 08:23:20 | 古代日本

〇卑弥呼いや簸御子の冢

前回、卑弥呼(簸御子)の墓と云われる箸墓古墳について触れた。魏志倭人伝によると、卑弥呼の冢は径百余歩と記載する。

魏志倭人伝の里程記事や寸法に関しても百家争鳴で断言できないが、漢代の一尺は23.1~23.4cm、魏の時代は24.1cmと云われている。ここで魏の尺度を百余歩にあてると、144.6mに相当する(1尺=24.1cm 1歩=3尺)。従って卑弥呼の塚は145m前後ということになる。

冢(ちょう・つか)は円墳なのか方墳なのか、はたまた前方後円墳なのかとの命題をもつ。冢とは、土を高く盛った墳墓と理解できる。そこには円形か方形かとの意味はないであろう。次の径百余歩であるが、径とは差し渡しの意味をもっている。一般的には円とか球体の差し渡し寸法をいう。しかし、この解釈が陳寿の魏志倭人伝に適用できるかどうか・・・との問題もある。

伊都国王墓といわれる福岡県糸島市の平原遺跡、そこの墳墓は方形墓である。陳寿は何をもって『卑弥呼の冢は径百余歩』としたのか。魏から邪馬台国への遣使、あるいは邪馬台国から帯方郡経由魏都への遣使から聞き及んだかと思われるが、それが方墳か円墳か前方後円墳か判断つきかねる。

方墳であれば『径百余歩』の表現の妥当性が気になる。邪馬台国の時代に伊都国迄の順路中に円墳が存在したであろうか。彼の地に足を運んで逐一調べた訳でもないので断言できないが、円墳らしきものはないようだ。弥生時代の墳墓は、甕棺墓・支石墓・石棺墓・木棺墓あるいは方形周溝墓であり、墳丘を持つのは方形のようである(吉野ヶ里北墳丘墓は14基の甕棺を納める)。先の平原遺跡は現地を訪れ確認したが、外観は方形である。従って、陳寿の『卑弥呼の冢は径百余歩』との表現に違和感を覚えている。

(平原遺跡・平原王墓)

これまで記述してきたことから考えられるのは、既に森浩一氏が述べられているように、古代中国の『天円方丘』、つまり古代中国で冬至・夏至の祭祀をした円丘・方丘であろうと述べられている(森浩一『日本古代史』筑摩書房)結論かと思われる。この円丘・方丘とは何ぞや・・・と云うことになるが、森浩一氏はこれ以上語っておられないものの前方後円墳の祖形かと思われる。『天円方丘』とは『天円地方』とも呼び、天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観である。都の北東に方形の地壇を、都の南東には円形の天壇を築いて、皇帝が地を祀り天を祀った・・・それであろうと森浩一氏は指摘しておられる。

(円壇の流れを汲む北京天壇 出典・Wikipedia)

卑弥呼は帯方郡経由魏都に遣使を派遣した。卑弥呼の没後は台与(壱与)の遣使(掖邪狗等二十人)が晋都に派遣された。泰始弐年(226)年、西晋武帝は、郊祀(こうし)の儀礼を洛陽城外に方壇・円壇を築いて執り行った。この掖邪狗等の遣使が、武帝の郊祀の儀礼を見聞していた可能性がある。“方壇と円壇”を築いて祖霊を祀る様を見ていたと思われる。それが帰国後、卑弥呼の径百余歩の塚になった。つまり、円と方の合体した前方後円墳である。

またまた証明不能の噺を記載した。個人的には邪馬台国九州説をとっているが、九州で3世紀前半ころの前方後円墳は発見されていない。該当する時代の円と方の組み合わせは、楯築墳丘墓(円と方の特殊形状墳)と纏向石塚古墳である。

九州説で、何が何だかわからない卑弥呼の塚に該当する墳丘墓アリやナシや。出雲では簸御子に該当する墳墓は、ありそうもない。

<続く>

 



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