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チェンマイ国博ガイドブック・#4

2015-12-21 09:07:31 | 博物館・タイ
ワット・チェンマン刻文①からみたランナー王国>


               (写真はチェンマン寺刻文)
1292年、メンライ王がハリプンチャイに遣って来た。彼は1294年にウィアン・クムカームを建設したが、毎年ピン川の洪水に見舞われた。そこで1296年、彼は友であるパヤオのガムムアン王、スコータイのラームカムヘーン王に国都に相応しい土地について相談した。彼らは、ドイ・ステープとピン川に挟まれた地を新都にすることに合意した。
新都はピン川を介して地域間、更にはビルマや中国との交易ルートとして絶好のロケーションであった。
新都を矩形にする計画、それはスコータイに似た計画であるが、1296年4月12日に完工した。新都であると共にランナー王国の交易の中心で政治、経済、宗教、文化の中心であった。そしてメンライ法典なる法を採用した。王国の繁栄は、歴代王の正義に依存していた。

11代パヤ・ケーオ王(1495-1525年)治世下、仏教が盛んになった。多くの高僧や著名な仏典が、この間に著された。そしてチェディールアン寺やプラ・チャオ仏のような、数多くの建築学上注目すべき建造物や彫像が作られた。
この時代にアユタヤ、スコータイと北部の雲南を結ぶ交易路は拡充された。中国人交易商もまたランナー王国に交易を求めた。
パヤ・ケーオ王の治世下、王朝は衰退に向かう。33年後のメークット王の時、ランナーはビルマに滅亡させられた。王国の統治の仕組みの弱点と、支配者間の反目が、王国滅亡の原因であった。
メンライ王の治世以降、国都チェンマイでは国王自らの軍隊を持っていたが、ランナーの他の都市も独自の軍を擁していた。チェンマイがビルマと戦った時、ランナーの軍を統率するのは難しかった。従って、ある地域がチェンマイ王都に反逆したい場合、それは容易であった。メンライ王が始めた、この統治上の弱点がランナーが262年後(1558年)ビルマ・タウングー朝に敗北する大きな要因であった。
ビルマのバイナウン王(在位1551-1581年)は、僅か3日間でチェンマイを征服した。その後バイナウン王は、多くの職人をビルマに連れ帰った②。


①1581年成立、従ってメンライ王建都後約300年経過している
②芸術・文化の興亡は、戦争を契機とする場合が多かった。勝利者は敗者側
 の職人を戦利品として連れ帰った

                                  <続く>






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