<続き>
暫く横道に逸れていた。新春特集を再開する。
〇邪馬台国と高句麗建国時の類似性
高句麗建国時は、シャーマン的機能がなお王権の主要な性格であった。この小国家の連合したものが好太王時代の高句麗である。
伽耶でも出土品から伺えるのは、同じような状況であったと思われている。当時すでに仏教は高句麗に伝来していたが、その好太王の時代にあっても高句麗や伽耶では、邪馬台国の女王卑弥呼の鬼道と似た祭政一致の政治が行われていたであろう。
高句麗の王位継承は、モンゴルのクリルタイ(部族会議)方式であり、王位継承の選挙権をもつ有力な五部族が、王位継承の候補者をそれぞれ擁立し、支援部族の強力なものが王位に就いた。
『三国志・魏志巻三十・扶餘伝』は、「諸加共立麻餘。・・・舊夫餘俗,水旱不調,五穀不熟,輒歸咎於王,或言當易,或言當殺。(諸部族が王を共立す。・・・旱魃などで五穀が実らないときには、その罪を王に帰し、あるいは王を交代させろと言い、あるいは王を殺せという)」という記述があり、シャーマン的王権と考えられる。
翻って我が卑弥呼。魏志倭人伝は以下の如く記す。『其の國、本(も)と亦た男子を以て王と為し、住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。』、『倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素(もと)より和せず。倭の載斯・鳥越等を遣わして郡に詣らしめ、相攻撃するの状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を遣わし、因って詔書・黄幢(こうどう)を齎(もたら)し、難升米(なしめ・なんしょうまい)に拝仮せしめ、檄を為(つ)くりこれに告喩(こくゆ)す。卑弥呼、以て死す。』
倭国は乱れたので卑弥呼は、諸首長より共立され女王となったが、狗奴国と戦ったが戦況は思わしくなく、帯方郡の塞曹掾史張政の支援を受けた。そのさき突然以て死す・・・と記されている。これは先の『三国志・魏志巻三十・扶餘伝』同様、敗戦の責を問われて卑弥呼は殺害された可能性が高い。
以上、縷々記載したが、高句麗の初期と邪馬台国の祭政が、ほぼ類似していることが御理解できたのでないだろうか。
邪馬台国を構成する国々が全て、北方民族の末裔ないしは、その影響を受けたものとは考えられず、縄文人や呉越からの渡来人もその一員と考えられるが、上述のように扶余族の習俗をもつのも確かである。
<続く>
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