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卑弥呼と出会う博物館・大阪府立弥生文化博物館(1)

2019-06-14 07:08:02 | 古代と中世

鳥取砂の美術館・南アジア編の連載を終へ、順番としては一時中断している「古代出雲『青銅器と勾玉』の聖地巡礼」に戻るべきであろうが、地元の話で忘れはしないので後回しにし、忘れないうちに大阪と兵庫の考古関連博物館で見た事柄を先に記事にする。初回は卑弥呼と出会う博物館と銘うつ大阪府立文化博物館をみての雑感である。

弥生文化博物館には卑弥呼の館をテーマとしたジオラマ展示と、卑弥呼の等身大であろう想定復元フィギュアがあり、卑弥呼の時代と彼女に出会うことができる。これらは平成2年の開館以来継続して展示されているとのことである。先ずジオラマであるが、それは発掘成果と民俗考古資料、更には魏志倭人伝に記される邪馬台国や卑弥呼の宮室・楼観記事を参考に想定復元されている。

ジオラマ説明用の写真ボードから説明したい。外郭の正門の手前は環濠の外濠である。外郭には写真にはないが吉野ヶ里遺跡で見るような物見櫓が建っている。外郭の正門から中郭の正門へは斜めに斜向するようになっている。敵が攻めて来た場合の時間稼ぎと迎撃場面を作り出すための工夫であろう。

中郭を囲むように、魏志倭人伝記載の城柵が囲んでおり、その中央を穿って正門が設けられている。尚、中郭は内濠を介して外郭より一段高くなっており、それは方形に築かれている。

その中郭の広場には魏の使者が並んでいる。魏の使者とは帯方郡使であろうか? その郡使を儀仗するように6人の衛視が朱色に塗られた楯と矛を持ち整列している。内郭の手前には左右同形の接見の間と呼ぶ掘っ立て柱建物がある。

内郭は中郭中央の奥に位置し、中郭より一段高く築かれている。内郭の正門を潜ると右が神殿(棟持柱をもつ高床式建物)、左が高床式で入母屋造りの高殿である。その高殿に見えるのが卑弥呼で、手前の人物が卑弥呼に謁見している帯方郡使であろう。この内郭には他に男弟の居室と宝物庫が建ち、内郭の後方を柵で仕切って卑弥呼の居室がある。

しかし、これでは後方が余りにも無防備である。裏を突かれたらどうするのか? 邪馬台国の時代に卑弥呼の居室は、四方が防御できるように区画されていたであろうと考える。

内郭の正門の左右にも楯と矛をもった衛視が立っており、それなりの警備体制を想定して作られたジオラマである。

卑弥呼が御簾越に帯方郡使と謁見している高殿には蓋(かさ)が立てかけてある王権をしめしている。その蓋は絹笠であろうか。

中郭の向かって左側は高床式倉庫で米蔵であろう。沢山の人々が列をなしている。

向かって右の外郭は、市場のようで多くの人々をみる。農作業に出掛ける人や話に興じている人々、さらには土器作りをしている人、籠に作物をいっぱい入れて運ぶ人等の日常風景が描写されている。

よくできていると思われるジオラマではあるが、卑弥呼には1000人が持していると記載されている。このジオラマに1000人を配すとどのような光景になるであろうか。とてもこんな小規模なジオラマで収まりそうにもない。もっと規模の大きい面積で、建物も数多くかつ建物規模も、池上曽根遺跡で復元されているような大規模建物であった考えられる。

ここで大いなる疑問がある。展示のジオラマは南北配置なのか、東西配置なのか? これについては、ジオラマのキャップションは何も語っていない。

魏志倭人伝には、“景初二年六月、卑弥呼は大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む、太守劉夏、吏を遣わして将て送りて京都に詣らしむ”・・・とある。つまり卑弥呼の遣使は帯方郡経由で魏の都に至ったのである。従って遣使は魏の王宮は南北配置であったことを実見している。遣使が邪馬台国に帰国し報告しているとしたら、卑弥呼の王宮は南北配置にした可能性が考えられる。果たしてそうか。

建物が中國と同じように南北配置になるのは、飛鳥時代からと一般的に云われている。この一般論に従うなら南北配置の可能性はなくなる。

纏向遺跡は3世紀と云われ、建物配置は太陽を臨む東西配置であった。先にも記したが稲作の民は、太陽と水を絶対視した。であるとすれば、西方の建物配置である東西配置であったと考えられる。

古代から中世のタイ王国の建物配置(現在もであるが)も東西配置である。それほど太陽を神聖視したのである。卑弥呼の王宮は東西配置であったと考えている。

 

<了>

 

 

 


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