世界の街角

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環濠集落の消滅と天孫族

2019-02-27 08:39:30 | 古代と中世

今から13年前、エッセイ集『司馬遼太郎が考えたこと・2』を読んでいたが、中味はとうの昔に忘却していた。最近読み返しているが、昭和36年12月のエッセイ『ああ出雲族』に目が釘付けになった。やや長文だが転載する。

『先年、私は出雲へ旅をした。この地は天孫族が日本列島を征服する以前に出雲族による王朝のあった国である。私の旅は、出雲族の祖神たちをまつった古社を歴訪しつつ、古事記や出雲風土記に出てくる、そのかみの出雲王朝を空想するのが目的だったが、私の空想は、ともすれば道をゆく出雲おとめの美しさにさまたげられた。

彼女らは、ひと皮の眼が多い。

顔の肉がうすくて、ややおもながであり、男好きがする。

彼女らの顏は、出雲の地下から出土する弥生式の土器とおなじ系列のものだ。それらの土器は朝鮮、満州、蒙古から出土するものとほぼおなじものとみられている(当該ブロガー注:この土器は朝鮮系無文土器と呼ばれ、出雲市大社町・原山遺跡、出雲市・矢野遺跡、松江市・西川津遺跡などで出土している)。出雲女性の血には、ツングースの血がまじっているのであろう。

みなみからきて中つ国を平定し出雲王朝をほろぼした天孫族がどういう人種であるのか、いまだに定説がないが、天孫の貴族が何人種であれ、勇敢な南方のポリネシア人を多数連れていたことはたしかである。

つまり隼人だ。

かれらの男子は、いまでもカブキでクマドリをするように、眼の左右にイレズミを入れ、眼が裂けたようにみせる習俗があった。敵をおどすためだろう。

(写真は松江・風土記の丘資料館の人物埴輪頭部である。眼の刺青は見られないが、鼻の左右に刺青を見る。このような刺青が眼の左右にあったものと思われる。)

神武天皇の軍隊の根幹は、隼人の一部隊である「久米」と称する連中で、その族長が大久米命という元気のいい将軍だった。将軍といっても、台湾の高砂族(当該ブロガー注:日本統治時代に高砂族と呼んだ原住民で、マライ・ポリネシア系インドネシア語派に属す)や南洋諸島の連中とおなじく、赤フンドシをしめて、夏はハダカであったにちがいない。赤色は、いまもポリネシア系の原住民のこのむところだ。

神武天皇は、ある日、大久米命の眼のイレズミをみて、からかった。『あめつつ、ちどりましとと、など黥(さ)ける利目(とめ)』・・・おまえさん、なぜ、裂け目のようなイレズミをしているのかえ。大久米命は冗談を解する豪放なポリネシア人だったらしい。歌っていわく、『乙女に、直(ただ)に逢はんと、我が裂ける利目』・・・あたしはね、おんなの子にあったときよく相手の顏がみえるようにこうしているんでさ。

この神武天皇が、葦原中国(あしはらのなかつくに)を征服したとき、さっそく女房をもらった。その女房の名は、姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)というのだが、名というより美称だろう。タタラというのは、鍛冶屋さんがむかしつかっていたフイゴのことだ。フイゴは、タヌキの皮で作ったアコーデオンのようなもので、風をおくって炭火をさかんにし、鉄をとかす。新妻は、きっと寝室では、

『フイゴ姫』

と愛称されていたにちがいない。

この姫は、出雲王朝の皇帝事代主命のむすめで、天孫族と出雲族の融和のためにはるばる出雲の地から大和へとついできた。政略結婚である。とはいえ、古代的英雄である『神武』という征服王が、その男性的気質からみて、たんに政略だけで女房をえらぶまい。やはり当時から、男どものあいだで

『おんなは出雲』

という定説があったように想像する。』

・・・以上が、司馬遼太郎氏のエッセイの内容である。何とも、その想像力に脱帽する。

 (宮崎県情報誌JoJo8号掲載の準構造船)

(韓国・金海国立博物館展示の準構造船)

後世、渤海使が船を浮かべ日本海を渡海したように、ツングースが丸木舟ないしは準構造船のような船で、縄文後期か弥生期に出雲に渡海してきて、出雲王朝を建国したのであろうか・・・と、想像力が膨らむ。朝鮮半島経由などと、まどろっこしいことではなく直接渡海であろう。

天孫族については、台湾・高砂族のようなポリネシア人が南の島嶼伝いに、日本列島に至ったとの噺である。そのポリネシア人グループが出雲のツングースを負かしたことになる。

出雲に派遣された天孫族は、大和や日向からであろうか? 噺をややこしくして恐縮であるが、それのみではなかろう。山陰米子に稲吉角田遺跡が在る。そこから高床式住居や準構造船のような船に乗って、櫂を漕ぐ羽(鳥)人が刻まれた土器が出土した。そこには櫂を漕ぐ人々の頭部に、鳥の羽と思われる飾りがついている。

この羽人は南越のドンソン銅鼓(ドンソン文化:前4世紀ー前1世紀)にみることができる。

(出典:西村昌也『北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点からの理解』)

してみれば、山陰の海辺にも南方のポリネシア人が直接乗りこんだ、あるいは大和のポリネシア人(=天孫族)と示し合わせて、乗りこんできたであろうと、空想は果てしなく広がる。

その果てしなく広がる空想の行きつく先を想像してみた。環濠集落は、稲作文化と同時に朝鮮半島経由かどうかは別にして、大陸から伝播し日本列島東部へと波及したと考えられる。しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で姿を消した。この時期に西日本から東にかけて政治状況が変化したと考えられている。この変化が、上の噺と繋がりはしないのか・・・。つまり環濠などと無縁のポリネシア人グループの来寇である。

忘れていた。司馬遼太郎氏は出雲美人に言及している。出雲で生を受けて育った当該ブロガーの眼には、男好きの女性は何人もいるが、いわゆる出雲美人は一人しか見た経験がない。目が節穴であったろうか。以上、司馬遼太郎氏のエッセイを読みながら、件(くだん)の妄想を抱いた次第である。

<了>