世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ランプーンのグーチャーン遺跡はピュー(驃)国の影響か?

2018-08-20 07:35:27 | 古代と中世

根拠の薄い噺で恐縮である。7月25日に発刊されたCHAO367号の特集記事は『トラムで周るランプーン』であった。みるとトラムで11箇所の名所・旧跡巡りである。過去4年半もランプーンの工業団地に通っていたが、紹介されている11箇所のうち、ワット・ハリプンチャイ、ワット・チャーマティーウィ、チャーマティーウィ女王像の3箇所しか行った経験がない。そこで過日、行ってみたがグーチャーン遺跡では、以下の如く考えたものの、前述の如く根拠の薄い推論で恐縮である。

先ずグーチャンと呼ばれる遺跡の写真から紹介したい。グーとは墓、チャーンは知る人も多いと思うが象である。遺跡とはその象の墓である。

話が逸れるが、ここでも多くの人々が参拝に訪れていた。信仰心の篤いタイの人々である。写真を見て頂きたい。砲弾型の仏塔に他ならない・・・これはどこかで見たとの思いがよぎる。ミャンマーのタイエーキッタヤー(シュリークシェートラ)はピュー国時代の10世紀以前の城郭都市である。そこには砲弾型仏塔が並ぶが、それとグーチャンの墓塔は同じ形である。

但しグーチャンの塔頂には、日本の五重塔の九輪に相当するものはないが、長い年月で崩壊したとも考えられる。

832年、驃国は南詔に滅ぼされ、そこに居住していたモン(MON)族とピュー族は、南詔に連れ去られたという歴史がある。ランプーンと云えばハリプンチャイ王国の故地である。初代女王チャーマティーウィはラヴォー(現ロッブリー)から招聘されたモン族で、ハリプンチャイはモン族国家であった。ハリプンチャイのモン族と驃国のモン族、塔の姿が似ていているのも、それなりの蓋然性があるのであろう。

このグーチャンと共にグーマーの墓塔も存在する。マーとは馬である。そのグーマーの墓塔を下に掲げておく。

この塔の形式はグーチャーンとは異なるようで、この原形も根拠は何もないが、ミャンマーに存在するのではないか?

ハリプンチャイの故地は、現在のチェンマイ盆地の南に位置する。古代から中世において、そこは交易の十字路であったであろう。北はシーサンパンナを介して南詔王国、東はクメール、南はシュリービジャヤ、西は驃国との交易である。それらの国々と相互に影響を及ぼしていたであろうとの想像に難くない。

古代から中世にかけての日本。朝鮮半島や中国、一時期は渤海との往来は存在したが、日本は受け手に終始したと考えると、やはり東海の果てる国であった。それに比較すると、北タイは決して鄙びた印象を受けないのである。

<了>