ミャンマー陶磁#3
ビルマ人考古学者はトワンテ地区に、窯場が歴史史料に基づき存在するであろうと、予見していたとブラウン女史は云う。しかし、その仮説を確認するための現地調査は未だ行われていない。具体的な情報の欠如は、彼女のいうタイとビルマの陶工と、青磁を焼成した窯との関係について、推測以上のものにしていない。
しかし1990年代後半、この状況は変わった。トワンテとヤンゴンの北西(Lagunbyee)の窯場が特定された。トワンテはイラワジ・デルタに窯が横たわっている。焼成品の中心は施釉陶から成立している。多くは青磁だが、白釉陶に緑の幾つかの陶片が収集された。しかし残念ながら、これらの陶片は、収集された窯の正確な情報が記録されていない。
カンヨゴーン(Kangyogone)として知られているトワンテの発掘現場では、スコータイやスワンカロークと似てはいるが、全く同一ではない窯が発見された。緑釉盤を含む陶磁は鉢、動物の肖形物などである。
トワンテ地区の他の村落であるYadesheで、盗掘された9基の窯が観察された。焼成物の範囲は広く瓶、ハニージャーやタイルもあった。また褐色釉や刻花文陶磁もあった。
ラグンビーの窯は、城壁や濠などが複合しており、15世紀以前の広大な開拓地であったと考えられている。ここはビルマの考古学者によって1999年6月に発掘された。鉛釉の白釉陶と多くの“箆”で刻まれた文様の「せっき」の2つのタイプの陶磁が出土した。それらは盤と大型の壺であった。これらのイラワジ川下流の窯は、多くが東南アジアの施釉陶の「黄金時代」に創業した15世紀からと思われる。
古代の首都バガンには、早い段階から施釉陶の伝統がある。しかし、それは貯蔵壺よりむしろ、ストゥーパに使われた「せん」や寺院の基礎部分の銘板(以降「せん」と表現する)などである。緑と白のモノクロームの釉薬は低温焼成であった。この事例は、寺院の素焼の銘板を用いた伝統に由来する。
(錫鉛釉緑彩「塼」は多くが紹介されているが、上の無釉塼はバンコク大学東南アジア陶磁博物館に展示されている)
施釉の塼を持つバガンの幾つかの寺院は、碑文によって年代付けできるにもかかわらず、施釉の「せん」が寺院の創建と同時代であることを確認することができない。少なくともそれらの幾つかは、後代に施釉の「せん」に置き換えられた可能性がある。しかし、それらはバガンの黄金時代である11-13世紀に焼造されたものと思われる。
更に多くの施釉の「せん」が15世紀の間にバゴー(Bago)で作られた。ブラウン女史は1988年、バゴーのシュエグジー(Shwegugyi)寺院の1000以上の「せん」が、1980年代に高度に組織化された略奪者によって、事実上一晩で持ち去られたと記録している。現場からの「せん」の略奪は19世紀に始まった。
しかし、USやヨーロッパの多くの美術館や個人コレクションに、シュエグジーの「せん」が保存されている。
ビルマ人考古学者はトワンテ地区に、窯場が歴史史料に基づき存在するであろうと、予見していたとブラウン女史は云う。しかし、その仮説を確認するための現地調査は未だ行われていない。具体的な情報の欠如は、彼女のいうタイとビルマの陶工と、青磁を焼成した窯との関係について、推測以上のものにしていない。
しかし1990年代後半、この状況は変わった。トワンテとヤンゴンの北西(Lagunbyee)の窯場が特定された。トワンテはイラワジ・デルタに窯が横たわっている。焼成品の中心は施釉陶から成立している。多くは青磁だが、白釉陶に緑の幾つかの陶片が収集された。しかし残念ながら、これらの陶片は、収集された窯の正確な情報が記録されていない。
カンヨゴーン(Kangyogone)として知られているトワンテの発掘現場では、スコータイやスワンカロークと似てはいるが、全く同一ではない窯が発見された。緑釉盤を含む陶磁は鉢、動物の肖形物などである。
トワンテ地区の他の村落であるYadesheで、盗掘された9基の窯が観察された。焼成物の範囲は広く瓶、ハニージャーやタイルもあった。また褐色釉や刻花文陶磁もあった。
ラグンビーの窯は、城壁や濠などが複合しており、15世紀以前の広大な開拓地であったと考えられている。ここはビルマの考古学者によって1999年6月に発掘された。鉛釉の白釉陶と多くの“箆”で刻まれた文様の「せっき」の2つのタイプの陶磁が出土した。それらは盤と大型の壺であった。これらのイラワジ川下流の窯は、多くが東南アジアの施釉陶の「黄金時代」に創業した15世紀からと思われる。
古代の首都バガンには、早い段階から施釉陶の伝統がある。しかし、それは貯蔵壺よりむしろ、ストゥーパに使われた「せん」や寺院の基礎部分の銘板(以降「せん」と表現する)などである。緑と白のモノクロームの釉薬は低温焼成であった。この事例は、寺院の素焼の銘板を用いた伝統に由来する。
(錫鉛釉緑彩「塼」は多くが紹介されているが、上の無釉塼はバンコク大学東南アジア陶磁博物館に展示されている)
施釉の塼を持つバガンの幾つかの寺院は、碑文によって年代付けできるにもかかわらず、施釉の「せん」が寺院の創建と同時代であることを確認することができない。少なくともそれらの幾つかは、後代に施釉の「せん」に置き換えられた可能性がある。しかし、それらはバガンの黄金時代である11-13世紀に焼造されたものと思われる。
更に多くの施釉の「せん」が15世紀の間にバゴー(Bago)で作られた。ブラウン女史は1988年、バゴーのシュエグジー(Shwegugyi)寺院の1000以上の「せん」が、1980年代に高度に組織化された略奪者によって、事実上一晩で持ち去られたと記録している。現場からの「せん」の略奪は19世紀に始まった。
しかし、USやヨーロッパの多くの美術館や個人コレクションに、シュエグジーの「せん」が保存されている。