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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

島根の東は荒神、西は大元神(4)

2020-12-25 08:06:25 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

<続き>

いよいよ島根県西部の大元神信仰である。白石昭臣氏①は、大元神は荒神と同じように祖霊的性格をもつと記されている。荒神と同じように祖霊とともに農耕にまつわる土着の豊穣神で、龍信仰の性格も合わせもつ。石見神楽は大元神楽と云っても過言ではない。大元神社に大元神楽を奉納する前の神事で荒神を祀り、いよいよ神楽奉納となる。朝方、全ての奉納演目が終了したあと、神職により大元神(藁蛇)に祈りが捧げられ、藁蛇を用いて「綱貫」と呼ぶ奉納舞が舞われ、その後藁蛇は神送りと称して、社殿後方の神木に捲きつけられる。

(日貫 大原八幡宮 島根県hp)

(日貫 大原八幡宮 島根県hp

(この藁蛇が祭祀後、社殿奥の神木に捲きつけられる。)

これは豊作を願う神事と大元神への奉納舞以外の何物でもないと考える。つまり旧出雲国の荒神祭りと同一のものである。

<続く>

 


島根の東は荒神、西は大元神(3)

2020-12-24 07:58:20 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

<続き>

日本では「神」が社を依代とするようになるのは、出雲国風土記の記載から察するに、古墳時代中期以降(根拠は希薄であるが、傍証として5世紀後葉の石田遺跡(松江市浜佐陀町)の祭祀址から高床建物の扉板が出土しており、祭祀の場に相応しい建物が在ったであろうと想定されている)と思われる。

それは、以下の埴輪でも裏付けられると考えるが如何であろうか。

過去2回にわたり今回のテーマである『島根の東は荒神、西は大元神』とは、あまり脈絡のないことどもを記してきた。

以下、荒神も大元神も古代からのアニミズムから派生した民間信仰以外の何物でもないと認識している。荒神祭祀と大元神祭祀は、共に類似している。柳田国男氏は、荒神や大元神などの『雑神』信仰に共通するのは、境の神(サイノカミ)=道祖神にみられるように、ムラ境に祀られて、外からの脅威にムラの人々を守る神としての信仰に求められると喝破し、荒神を荒振る神と捉えた。

先ず、荒神をご覧いただきたい。写真の神木に巻き付く藁蛇=荒神は、出雲市東林木町・都我利神社の境内奥に祀られている。藁蛇の頭部は実物の蛇に似せて作られている。

この蛇に似せることは水の恵みを受けて、豊作の予祝や収穫を願う目的と祖霊を祀る目的であろう。ところで、この荒神の神格がはなはだ曖昧である。旧出雲国では、藁蛇が捲きつく神木や大石・石塔などの、いわゆる地荒神と祠に鎮座する三宝荒神がある。この三宝荒神の祭神は素戔嗚命であったり、他の神々であったり定まらない。

上のGoogle Earthに旧出雲国・旧石見国の領域に鎮座する荒神や荒神社をプロットした。不思議なことに旧出雲国に荒神は多いが、旧石見国には僅か2箇所のみである。Wiki Pediaによると、島根県には120社の荒神・荒神社が存在するというが、プロットしたのは50社強で漏れが多いので断言はできないのだが・・・。

出雲地域でも平野部に集中しており、中でも出雲大社周辺に多い。

分布の偏りは何なのか? 新たな疑問が湧くが今回はPendingとしておく。

<続く>


島根の東は荒神、西は大元神(2)

2020-12-23 08:11:54 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

<続き>

日本でも北タイでも森に降臨し大木に依りつくカミは、時代がくだるにつれて人間社会の統制下におかれるようになり、木の根元に建てられた小祠におさまり、あるいは村に近い水田の中に残された樹叢のなかの小祠(残念ながら北タイの樹叢の小祠は未見である)に宿ることになった。カミを小祠に祀り、それに供物をそなえることによって、村人が災難を免れ、村の繁栄をきたしたという筋である。このころから、山や森の荒ぶるカミが村をめぐる土地と村人との守護神に転化したのである。北タイでホーピー(精霊の家)と呼ばれている小祠は日本の屋敷神と同じである。

(ホーピー)

ここで北タイの小祠について触れたが、この小祠は北タイも日本も後世の代物である。

やや冗長になって恐縮であるが、『出雲国風土記』に「大神(大神とは所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)つまり大国主命のこと)」、「」、「」が登場するのは、全部で29箇所にのぼる。それらは「島根郡条」の5箇所を除き、いずれも山に坐したり山に関連している。

日本の古代の神観念は、神は山に坐すとされていた。山中や山峯に在る神の社は、祠ではなく自然物であった。その『出雲国風土記』秋鹿郡安心(あし)高野条によれば、“山に樹木は生えていないが、ただ峯にだけ樹林がある。これが即ち神の社である。”・・・と記されている。同じく『出雲国風土記』秋鹿郡神名火山条では、神は山に坐すが、これを祀る社は山の麓にあると記されている。

社を設けた山の麓、つまり『山口』とは、山からもたらされる水を享受する場所であり、恵みをもたらす自然界とそれを得て耕作する人工的な空間との境界をなしている場所で、この概念は先にも記したように北タイも同様である。

つまり、日本では「神」が社を依代とするようになるのは、出雲国風土記の記載から察するに、古墳時代中期以降(根拠は希薄であるが、傍証として5世紀後葉の石田遺跡(松江市浜佐陀町)の祭祀址から高床建物の扉板が出土しており、祭祀の場に相応しい建物が在ったであろうと想定されている)と思われる。

<続く>


島根の東は荒神、西は大元神(1)

2020-12-22 07:38:14 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

以下、前置きが長く且つ長文で恐縮である。地元の民間信仰と云うか土着信仰に興味津々である。理由は簡単、1995年―1999年に仕事の関係でタイ王国・北の薔薇で微笑みの・チェンマイ(実は何が薔薇なのか、やや理解に苦しむが)に赴任した。北タイは多種多様な霊(ピー)や魂(クワン)が存在し、万物に依りつくという。多くの家々には、サンプラプームと呼ぶ土地霊とか家屋霊の柱上祠が存在する。

(サンプラプーム)

所謂アニミズムと云うか精霊信仰は、我が国でも太古の昔から存在した。つまり北タイとよく似た状況であり、それは北タイと同じように今日まで信仰されている。飛躍したモノイイをするなら、北タイのアニミズムを理解すれば、日本の太古の様子が推し量られると思われることが、興味を持つ理由である。

噺がやや反れた。太古の昔より、万物には精霊が宿るとされてきた。人は大自然に抱かれ、生きとして生けるものの生と死、多産と豊穣、天変地異などは、大自然のなせる業であった。その自然現象に左右された太古の人々には、自然こそ「カミ」として敬い、恐れる対象であったと思われる。その自然の「カミ」とは、自然界の万物に宿る霊魂=精霊であり、その精霊を信仰の対象としていた。

縄文時代、自然の中に満ちていた無数の精霊(カミ)は、弥生時代になると稲作の開始と共に、それに関わるカミ(稲魂、穀霊)と祖先のカミ(祖霊)を中心に、まとまっていった。その祖霊が祖神となり、やがて地縁集団による産土神信仰に繋がっていったと思われる。

その弥生期、稲作を中心とするムラごとの農耕の祀り(祭り)が執行され、春には豊作を祈願(予祝儀礼)し、秋には収穫に感謝(収穫儀礼)する祀りが行われていた。これらの儀礼では、カミを招くために、音曲を要したと思われ、弥生期の祭祀址と思われる遺跡からは、銅鐸や土笛が出土する。

ここでは音曲についてはPendingするが、太古から古代において、これらのカミは自然物、例えば大岩や樹林、大木・巨木に依りついたであろうことは、日本も北タイも同じであった。

タイ族、ラオ族は、巨木(聖木)に宿るカミをピーマイニャイ(大きな樹の精霊)と呼び、折々に供物をそなえて祈る。また、森の中のとくにこんもりと茂った樹叢には、ピーパー(森の精霊)が宿ると云い、ときとしてそこに小祠を見ることがある。

<続く>

 


野洲市・行事神社の鬼の眼

2020-03-22 09:42:20 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

過日、勧請縄についてネットで再検索していたところ、野洲市・行事神社に北タイ少数民族の鬼の眼と瓜二つの勧請縄が存在することが分かった。驚き以外の何物でもない。

他人様のブログなので写真流用が憚られるため、そのブログを紹介しておく。掲載されている勧請縄はまさに鬼の眼であり、以下の北タイ少数民族の鬼の眼と同じである。

(ラフ族村の聖木等に掲げられた鬼の眼)

(ラフ族住居入口の鬼の眼)

(チェンマイ郊外バーントーンルアンのアカ族の村の門)

野洲市の行事神社社伝によると、その起源は古く、神亀元年(724)御上神社の信託を受けた三上宿祢海部広国が勧請したのが最初とのことである。ところが、肝心の勧請縄の縁起というか由緒は不明である。何時の頃から勧請縄に鬼の眼が用いられたのかわからない。役目は北タイと同様で結界である。古来からの鬼の眼であれば、伝統が維持できているものと感心する。

本年2月20日過ぎに、勧請縄を見るため野洲に行ったが、当該行事神社は事前調査漏れであった。何でも毎年1月10日ころに、新しい勧請縄に張り替えられるらしい。来年1月中頃に行ってみたいと考えている。

<了>