<続き>
今回は目久美遺跡・縄文時代の出土品を紹介する。この目久美遺跡は縄文時代前期から弥生中期、更には中世にかけての複合遺跡である。
<続く>
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今回は目久美遺跡・縄文時代の出土品を紹介する。この目久美遺跡は縄文時代前期から弥生中期、更には中世にかけての複合遺跡である。
<続く>
今回から福市考古資料館の展示遺物を紹介する。
このような展示光景で、企画展として古墳時代から奈良時代にかけての「古代の米子」が開催されていた。先ずそれから紹介する。
次回から常設展の展示物を紹介する。
<続く>
今回は古墳時代の馬ノ山4号墳出土遺物を紹介する。
今回で、鳥取・湯梨浜町羽合歴史民俗資料館展示遺物の紹介を終了する。
<了>
<続き>
前回、蓋(きぬがさ)形埴輪を紹介したが、これは令和天皇即位儀礼で用いられた菅蓋(かんがい)の祖源であろう。
以下、古墳時代の長瀬高浜遺跡出土の土器と、その他の出土遺物を紹介する。
<続く>
<続き>
多くの蓋(きぬがさ)形埴輪が出土しており、それなりの勢力を誇る首長が存在していたであろう。
武具に関する埴輪も展示されている。先ずは鞆で矢を射るときの命中度を向上させるためのものである。
盾形埴輪や甲冑埴輪も展示されている。200棟以上の建物跡が出土しており、それなりの武装集団が存在した証か?
円筒埴輪ではなく、朝顔形埴輪が古墳に並んでいたことになる。地域性の違いを知ることができる。
火焔状の棟飾りである。棟の上に鳥が止まる家形埴輪が存在するが、火焔の棟飾りは初見である。どのような意味を持っているのか?
家型埴輪は、いずれも千木が載り土間式である。屋根は入母屋・寄棟・切妻の各式をみる。一方、弥生期の竪穴住居から古墳時代に土間式に変化したことを物語っているであろう。高床式住居の埴輪を見ないのは、作られなかったと考えるより、冬季の寒さが半端ではない山陰の住居として、存在しなかったと考えたい。
<続く>