まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「青春哲学の道(16)」

2011-09-08 | 自叙伝「青春哲学の道」
さて、どうするか、急きょ金を手に入れるには、ここはまたどっかに身売りするしかない。俺は年明けすぐに新聞の就職ランから二つを選び、二つの面接をどちらに行くか迷っていた。二つとは焼き鳥屋と経営誌である。前の出版社の実業公論編集長時代に一度ペンを折ったことがあったので、もう経済記事を書くのはイヤだった。で、焼き鳥屋に勤め、焼き鳥を焼いて、余った時間で小説を書こうか、あるいは、やっぱり経済誌のほうが経験はあるし収入は安定するだろうしと、焼き鳥屋と出版社とどちらにするか迷っていた。しかし、とりあえず四谷にある経営政策研究所という「経営コンサルタント」という経営誌を発行する出版社に面接に行った。塩月修一といういかつい社長の面接となった。面談後、「君は編集より、営業がいい。給料は25万円」と塩月社長から言われた。当時、俺はもう39歳になっていたし、長男が中学生、長女が小学高学年だったので、最低30万円ないとやっていけなかった。それで塩月社長に「営業でもいいです。しかし、三ヶ月雇ってみて、こいつは使えると思ったら30万円に上げて下さい。その代わり、使えないと思われたら、ちゃんと三ヶ月でハラを切って辞めますから」「面白いことをいう奴だな、よし、それで行こう」。面接はOKとなった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。