まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「青春哲学の道(15)」

2011-09-07 | 自叙伝「青春哲学の道」
俺はやっぱり「書く」という仕事しか定着できない性格かも知れない。しかし小説を書くには才能がない。とすれば、会話の綴りであるドラマシナリオなら行けるかもしれない。そう思って、読売文化センターのシナリオ塾に通った。先生はシナリオ作家協会の理事でもある須崎勝弥氏だった。映画「人間魚雷」「連合艦隊」などの戦争ものを始め、山口百恵と三浦友和の「潮騒」、テレビでは「青春とはなんだ」など数多く手掛けていたシナリオ作家である。彼はこういうことを言っていた。「ぼくがシナリオを書こうと思ったのは、ぼくは映画を観て感動することができる、これだけ感動できる心があるなら、必ず書くこともできるはずだと、そんな単純で悲壮な決意だったですよ」。なるほど、それなら俺もできるはずだ、俺はシナリオセンターに通い、シナリオの構築やいろんな作家の作法を勉強した。そして「土工漂流記」という一時間もののシナリオを初めて書いて須崎先生に読んでもらった。「うん、ヒットくらいは打てるかもしらんがホームランは無理だなあ」、と言われたが、とりあえずNHKの公募に出してみた。そして次に知人から双葉社のマンガ雑誌の担当者を紹介してもらって、マンガの原作シナリオを5.6本書いて見てもらった。担当の林さんは読み終えた後、「一度釣りバカ日記のようなコンセプトで書いてもらえませんか」というので、サントリーの「なんでもやってみなはれ」という佐治社長と京都営業所から宣伝部に赴任した遊び人の主役を織りなしたマンガの原作シナリオを書いた。林さんはそれを読んで「谷さん、やりましたね」とエライ褒めようだった。よっしゃあ、これで食っていけると思ったら、後日、林さんから電話が入って「編集長が物語が前半後半二つに割れてると却下されました。すみません。お詫びに次号のクイズに応募してもらってハガキに赤い縁取りをしてもらえば、当選にして一万円送ります」。俺は連載を企画していたので宣伝部にひょんなことから配属される主人公の一回目を書いたのだが、才能の無さに落胆してしまった。年末になってNHKのドラマシナリオ公募の発表もあったが、これも落選、岡戸社長からの振り込みも期限切れになって、またカミさんから金の催促をされる始末になった。もはやディエンドである。


「青春哲学の道(14)」

2011-09-07 | 自叙伝「青春哲学の道」
電気屋を辞め、また家でごろごろしだしたある日、広告代理店の知人から「広告を手がけている得意先のオカドという会社が傾きかけている。このままだと広告代が回収できなくなる。お前の力ならできる。立て直してくれ」という依頼があった。相模原でトラック100台を持ち引越しを手がける、岡戸総業という運送会社だった。俺も子供二人を抱え、失業中だったので、岡戸社長に会い、企画室長という肩書きで、仕事をするようになった。最も俺は雑誌生活が長くサラリーマン気質ではないことは前回の電気屋で経験しているので、勤めるというのではなく経営コンサルタントとして週5日常勤の請負仕事という形をとってもらった。中に入って調べてみると、まず、常用といわれる物流の仕事より、引越しのほうが5倍も粗利が出ることがわかった。まず、方針としては引越し部門を伸ばし、収益を上げること。次に現状の引越し受注を見ると、チラシ配布、電話帳広告が主軸だった。受付でお客のアンケートを実施させ調べた結果、引越しの売り上げに占める広告料はそのどちらも25%を占めていた。広告料を減らして、売り上げを上げる方法はないか。今でこそスーパー、コンビニのサービスカウンターは多くのサービスを取り上げているが、今から25年前は、ほとんどサービスカウンターを設置しただけで、各流通業も模索状態だった。一方引越し顧客を調査すると、市から同じ市に引っ越すのが3割、隣の県なり市に引っ越すのが3割、他県に引っ越すのが3割という状況だった。そうするとほぼ6割は地域密着の流通業とサービスとして提携できる素地があった。俺は、プレゼンテーションの資料を作り、スーパー、コンビニ、ホームセンターなどを回り、どんどん提携を進めていった。パンフレットを店に置かしてもらい、各流通業の店のチラシにも「引越し承ります」と広告を入れてもらい、受ける電話はオカドに置いて、成約できれば10%の手数料を支払うというシステムだ。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、俺はそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など本社を回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、俺の構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、岡戸社長は、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。俺は、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。そんなこんなで、三年半引越センターの仕事をやっていたある日、岡戸社長の別れた奥さんと喧嘩になった。奥さんはまだ肩書きだけは常務として在籍しており、その弟が専務になっていた。詳しい事情は忘れたが、奥さんの時代と経営規模が随分変化しているのにも関わらず、たまたま社にやってきた常務が昔のやり方を持ち出したので「あなたには経営が判っていない。口出ししないで欲しい」とやり合った。「谷さん、もう少しガマンしてくれればよかったのに」と岡戸社長は言ったが、俺はまたまた身を引くことになった。俺はやはり組織や人間関係というものが苦手だったし、身を引く潮時でもあった。岡戸社長は向こう半年間、今までの功績を認めてくれて、毎月30万円退職金代わりに振り込んでくれるという。それなら半年間仕事をしなくても暮らしていける。俺はドラマのシナリオ塾に通うようになった。


「青春哲学の道(13)」

2011-09-07 | 自叙伝「青春哲学の道」
「こいつはヤバイ」、緊急避難的に仕事をしなければ食っていけなくなった。しかし俺は生活苦というのには程遠い人間である。武士は食わねど高楊枝、ではないが、金というものにまるで執着がない代わりに、生活苦というものに怯えもなければリアリティーというものがまったくないのである。その意味で妻である美恵子はずいぶん苦労したに違いない。ところで、チンケな仕事しかないなら活字世界はもういい、俺は新聞で探して「家庭科学」という電器量販店に面接に行った。店舗が8店舗ほどあり、従業員は50名ほどいた。社長面接の終わり頃、「34歳ですか、ギリギリの年齢ですが、採用決定としましょう。ただし特異な経歴なのでどういう仕事をしてもらうか、とりあえず商品センターに行ってもらいますか」、と社長は自分自身に言い聞かせているのか、俺に言っているのかよく判らない言い方をした。こうして俺は量販店の商品センター、つまり倉庫係となった。メーカーから届く冷蔵庫やテレビなどメーカー別に山積みになったものを、各店舗の店員が軽トラックに積んで持っていくのを型番ごとにチェックするのが主な仕事だった。勿論その出し入れも手伝うし、各店舗から大量に持ち込まれる空のダンボール箱を平坦に積み上げていく作業から、便所掃除まで俺の担当だった。汚れた便器を洗っていても苦にはならなかった。何メートルもダンボールを積み上げ整理していく作業も、なんだか清々しかった。三か月ほど過ぎると「少しは型番覚えただろう」と、吉祥寺店のラジカセの売り子に回された。客が来ると接客するのだが、客はどの機種がいいのかわからない。当時ラジカセがブームで100種も展示されていて、俺だってわからない。数日してこれじゃあ売れないとすぐ気がついて、一つアリスの曲をデモテープにして、全部大きくかけてみた。するとシャープの機種が最大にかけても音が割れず、東芝の機種は少し大きくしただけで割れた。そこで客が来ると「いらっしゃいませ」と声を掛け、迷ってそうな客には「そうですねー、この機種だと、ほれ、こんなに大きくかけても音が割れませんが、こっちだと、ほらこのように割れてしまいます」、とデモテープで聞かせると「これください」と即決になった。どんどん売れる情報は即座に伝票の打ち込みから社長の耳に届き、吉祥寺の音響部門が大きく数字を伸ばしていると話題になった。シャープの営業マンもやってきて「あなたが谷さんですか、沢山売って頂いてありがとうございます」とわざわざ礼にきた。しかし同僚から妬みの声も届いてきた。ラジカセだって、クラッシックやポップスなどジャンル別にいろいろ特長があるんだ、音量だけで一律に売るというのはいかがなものかというのである。それもそうだと思うけれど、そんな難しいこと言ったら即決できなくなる。第一客から苦情はこないし、むしろあのラジカセ買ってよかったわ、と再来店の客に言われたこともあった。量販店では月に一回、全社員がホールに一同に集まり、赤いハチマキを占めて、「売るぞおー」っと決起大会も行った。そんな電気屋に半年ほど勤めたある休日、通勤も兼ねて使わせて貰っていた店の軽自動車で近くの相模湖に魚釣りに出かけた。たまたま同僚がそれを見かけたらしく、翌日、上司に使用で使ってもいいのかと喰ってかかっていた。俺はすぐ「責任をとります」と辞表を出した。「今後注意すればいいことだし、こんなことぐらいで辞めなくてもいいじゃないか」、と上司にそう言われたが、俺にとって会社勤めというのは性に合わず、どうも限界だった。足の引っ張り合いという人間関係にも馴染めなかった。その頃もちびちび小説らしきものを書いていたが、納得のいくものは相変わらずまったく書けなかった。俺の兄貴は詩を続けていたら詩の芥川賞といわれるH賞に手が届いていただろうし、小説に転向してからも何度も新人賞候補になったほど文才がある。ストーリーを構築するのが上手く、マンガも得意だった。ところが俺のほうはストーリー性にはまったく才能がなく、むしろ物事を哲学的に考てしまう。絵もデッサン力はなく、色彩だけがは得意だった。若い頃、兄貴は染織図案の道に進んだが「俺には色彩感覚がない」と辞めてしまったことがある。兄貴と俺はお互い足して二で割れば丁度よかったのかも知れない。


「青春哲学の道(12)」

2011-09-07 | 自叙伝「青春哲学の道」
(前編をお読みでない方は左下のカテゴリーの「小説」をクリックすれば、収録されています)

「汚れちまった悲しみに」、人間というものは汚れながら生きていくものかもしれない。俺は土方の仕事を辞め、次は何をしようか、タウン誌を作ろうと企画書まで作ったがうまくいかなかった。それなら編集プロダクションとしてフリーになろうと思った。就職雑誌のリクルートの門をたたき、リクルートが発行する「住宅情報」の仕事を請け負いで手掛けた。新築の住宅を取材し、徒歩何分でスーパーがあるとか4頁モノの記事を書いて誌面の割り付けまでして一本3万円だった。こんなコピーライターしてるんなら、まだ経済誌のほうがマシだなあとも思えた。しかしもう経済誌の仕事はしたくなかった。そんな折、実業公論を辞めてマーケッティングの仕事を共同経営していたミヤガワ君からお声がかかった。クライアントはいすゞ自動車のマリンエンジン部のようで、暇だったら仕事を手伝ってくれとのことだった。いすゞが千葉県の漁港にあるマリンエンジンの販売店の動向、店主の要望や規模の情報を収集して販路の拡大につなげたいらしい。俺は了解して、知人にもらったポンコツの車を飛ばして二週間泊まり込みで指定された千葉県の漁港の各販売店のオーナーを取材した。言われたようにクライアントの名前は伏せて、「協会の関係で来ました。業界発展のためにお話しを聞きたい。伺ったことは統計処理しますので一切個人的なことは表に出ませんのでご安心ください」、ミヤガワに言われた通り、こう言って店主を安心させ、個人情報を得るのである。二週間で終える一仕事が30万円にもなったので、俺は京都にも飛び、やはり同じスタイルで今度はヤマハの依頼でバイクの販売店を回ったりした。しかし、これは体のいい「産業スパイ」である。世にいう「マーケッティング」「市場調査」という多くは産業スパイみたいなものである。こんなバイタの身売りのような仕事じゃ心が痛んで、実業公論を辞めた意味はねえ、俺はそれ以降ミヤガワの仕事を断った。しばらくまた家でゴロゴロしてると、「あなた、もうお金ないわよ、明日から生活どうするのよう」、預金通帳片手に美恵子が俺に詰め寄った。