まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「青春哲学の道(20)」

2011-09-12 | 自叙伝「青春哲学の道」
(写真は「経営コンサルタント」取締役時代)
失業保険で暮らしているさなか、なんとか自分の今までの文学性の総結集とも言える「存在の彷徨」という哲学小説が完成していた。俺にとっては文学への関わりあいの遺作とも言える作品だった。埴谷雄高の「死霊」とサルトルの「嘔吐」に影響を受けた、「存在する意識」をテーマにしたものだった。俺は五木寛之審査委員長のノンフィックションの「親鸞賞」に応募した。小説だが意識というテーマではノンフィックションだったからだ。しかしあまりにも実験的な文体だったので、公募には一次予選も通過せず、落選した。しかし、世間では愚作であっても、自分には文学に対する遺書のようなものだった。それなりに満足し、俺はこれで永久に文学から足を洗おうと思った。丁度この時期に親友二人と叔父が相次いでこの世を去った。親友二人はともに高校時代からの友人だった。そして二人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。俺もその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ(俺のあだ名)、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝カン香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、俺が立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、俺のいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖ナカシをやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、京都伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、俺は僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。人生は一度っきり。そういう思いが強く心の中で渦巻いていた。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-10-09 07:42:25
お前さぁ、世間の批評する暇があったらどうして自分のブログに誰もコメントしてくれないか考えた方が良いんじゃない?えらそうに他人様の事批評できんだから自己分析なんて余裕でしょ?ほらやってみろよおっさん。読みやすくてワクワクするような文章書いてみろよカス

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