まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「青春哲学の道(19)」

2011-09-11 | 自叙伝「青春哲学の道」
話を戻して、その薬で、ようやく半分の力まで出せるようになったので、また、少しづつ仕事が出来るようになった。入社して五年もした頃、一宮がとうとう塩月に耐えられなくなって、会社を辞め、新たな出版社を立ち興した。俺はほっとした。一宮にも苛められ、塩月にも日夜怒鳴られていたが、まだ塩月のほうが、男としての社会に対する闘いの情熱というものには純なものがあり、怒鳴り散らして社員の使い方はまったくヘタだったが、男として尊敬できる一面もあった。それから数年して俺は取締役になった。ハデな新聞広告を出し、表面的には一流経営誌の様相を呈し、経営も順調だった。経済誌というのはペンを武器に広告を取る、いわゆるブラックジャーナリズムと言われるのが普通だが、三井信託銀行の広報部長などは「谷さんところはホワイトと評価しています」と言われたぐらいだ。ところが塩月社長は次第に持病の糖尿病が悪化し、入院が長引くようになった。俺が49歳、足掛け11年勤めたある日、塩月はこの世を去った。塩月の奥さんは、これを契機に会社を解散すると言った。ぼくは20数人の生活もあるし、この会社は閉じなくとも立派にやっていけると奥さんを説得し、奥さんを社長、俺が副社長、塩月の三女を専務に据える新体制を取った。俺は、番頭で十分だった。俺は塩月の三女を将来の社長に据えるため、以前から彼女に当初編集をやらせ、そののち営業をやらせ、出版社経営のイロハを教えてきた。しかし、まだ二十代で軽薄な一面もあって、会社の代表印を渡すわけにもいかず、奥さんに社長になってもらって重しになってもらう、そのうち彼女が成長したら、社長にさせるつもりだった。ところが、彼女がある著名な評論家とホテルで取材後一夜を共にしてしまい、あげくの果て、子宮外妊娠し、手術で卵巣まで摘出してしまった。その頃から情緒不安定になっていたことを俺だけが知っていた。塩月の葬儀が終わって、あいさつ回りに出かけていたある日、奥さんがいる前で「あなたはハラ黒い」と俺に突然食って掛かってきた。自分が社長になれなかったこともあり、急に俺への罵倒が始まり、誰からかへんな入れ知恵をされたのかとも思ったが、俺もハラが立って、「そこまで言うのなら、ぼくはこの会社を辞めます」と席を立った。その後、電話で俺は奥さんに「彼女は精神的に病んでいるので、休ませて上げてください。元気になったらまた戻ればいいのですから」と言った。しかし奥さんは「自分の娘を精神病扱いにした」とぼくの辞表を受理した。なんとも無念な話しだった。ぼくは失業保険で、1年、もんもんとした気持ちでパチンコを打ち続けた。一年後、奥さんにふっと電話をいれると、奥さんは「あなたには大変申し訳ないことをした。あなたの言うことは本当だった。あれからやっぱり娘は異常な行動を取って、お得意先に怪文書をバラまいて、大変なことになって、もうこれ以上続けるのは恥ずかしいので会社を解散し、今、残務処理をしているところです」。ぼくはまた無念な気持ちになった。


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