まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

「青春哲学の道(21-最終章)

2011-09-13 | 自叙伝「青春哲学の道」
人生は一度っきり。なら、「存在の彷徨」や今までの掌編小説を含む俺の作品をなんとか活字にしたいと思った。そして俺はそれらを活字にするため、「いのちにふれる」という新雑誌を立ち上げた。社名を30代にフリーになった時につけたキングコング社とした。社印も残っていたからだ。アパートの三畳一間を仕事場にし、創刊号は、俺の原稿だけでは印刷するだけ大赤字になるので、広告がもらえそうな大企業の経営者に軒並み取材のアポを取った。その一人に住友不動産の安藤太郎相談役がいた。安藤氏は住友銀行副頭取から頭取候補に敗れ、住友不動産の社長に転出、それまで住友グループの一財産管理会社だった同社を、高層ビルの建設を柱に、あれよあれよという間に三井不動産、三菱地所と肩を並べるほど急成長させた同社の中興の祖である。俺は彼に約二時間のインタビューを試み、創刊号に四ページモノの記事を載せたら、広報部長が「谷さん、非常によく纏まっていて、当社の社内報に転載させてもらってもいいですか」と言ってきた。勿論かまいませんよと応えたが、後日オフレコとしてどうしても聞きたいことがあったので、安藤相談役と再び会った時、問うてみた。野村秋介の一件である。土地が急騰したバブル時代、同社は住友商事と共同で東京近郊の町田を大規模に地上げしたことがある。そのやり方に「悪徳不動産・住友」と叩かれ、極左のような新右翼の野村秋介が同社に乗り込んで安藤太郎に詫び状を書けとせまったものだった。野村秋介とは後日、朝日新聞社本社で抗議の割腹自殺をしてご記憶の方もいるかもしれない。俺は安藤相談役に問うてみた。「で、どうされましたか。野村秋介は右翼といっても極左のような人物、金では決着つかんかったでしょう」。「いや、オフレコですが、こっちが6000万円、住友商事も6000万円、金をある人を介して渡しました」「野村秋介が金を受け取る、ちょっと信じられませんね」「確かに受け取りましたよ。後日本人から礼状がきましたから」。記者というのは信用してくれるとこんな秘話でも話してくれる。「まあ、いろんなことがありましたが、みんな墓場まで持っていきますよ」、安藤相談役は自嘲気味に笑いながら、そう語っていた。また日経連副会長でメルシャンの鈴木忠雄社長は、ガンを告知され、それを克服した話をしてくれ、やはり創刊号に四ページモノで掲載したが、広告をもらったことはいうまでもない。そうこうして印刷代はペイし、創刊号は書店にも並べてもらった。これで自分の遺書は活字になった。これで文字通り、文学とはおさらばである。長い間引きずってきた「文学」とおさらばと思うと、その裏で苦労してきた妻の美恵子に今まで苦労をかけ申し訳ない気持ちで一杯になった。これからは金儲けに徹し、カミさんをラクにしてやろう。俺にとって、それが次の目標となった。金儲けというのを目標にしたのは49歳にして初めてだった。俺はせっかく創刊した雑誌だし、これを見本誌として、これからは金儲けのために継続して雑誌を作ることにした。「いのちにふれる」のコンセプトを心の雑誌から、「明日の子供たちのために、いのちを大切にする視点から、人と企業の社会活動を考えるオピニオンリーダー誌」とコンセプトを大きく変更した。そして、自律神経の持病を抱え、ヨロヨロしながらも大企業経営者や雑誌の格を上げるために多くの著名人にも会った。経営は軌道に入り、いつしか、三畳一間から事務所を構えるようになり、自営業から資本金1000万円の株式会社にもした。そして中古だが一軒家を購入し、30年にわたるアパート暮らしからおさらばすることもできた。「これで大家に嫌味言われて家賃払わなくてすむわ。あたし、門扉のある家に住みたかったの」と、美恵子は嬉々として喜んだ。しかし体力はもう限界にきていた。足かけ七年を経たのち、ささやかながら蓄えも少しできたので、俺は、意を決して、会社を清算した。58歳で現役引退である。今から思うと、塩月によって、俺は病気になり、そして今もその病気を抱えているが、塩月に学んだからこそ、独立も出来たと思っている。塩月はいつも言っていた。「人生は闘いじゃあ、闘って、闘って、闘いまくれ。そして己に勝って、味方に勝って、敵に勝つんじゃあ」と。また実業公論の荒川社長や小野編集長にもいろいろ勉強させてもらった。出会ったいろんな人たちにも人生の勉強をさせてもらった。ロッキード事件で田中角栄を逮捕した堀田力は検事から福祉の世界に転身し、「思いを強く持ち、自分のいのちを捜すこと」と人生を説く彼は、未だにさわやか福祉財団の理事長として全国の福祉のNPOを応援している。陸軍士官学校出身の中條高徳はアサヒビールの営業担当の副社長としてキリンを抜きアサヒをトップの座まで導いた男だが、名誉顧問になった晩年に至るまで気迫に満ちた鋭い眼光は変わらなかった。その眼差しに学ぶものがあった。介護や居酒屋「ワタミ」の渡邊美樹会長は、「仕事とは人間性を磨くためにある」と言っていた。また俳優から参議院議員に転じた木枯し紋次郎こと中村敦夫は「谷さん、人生は所詮死ぬまでの暇つぶしですよ」と言っていた。世間でダーティーと言われた人たちにもよく会った。サラ金大手の武富士の創業者武井保雄会長は深谷出身でいつも産地のネギを送ってくれていたが、「人生は常に波動をキャッチし、そして無欲を欠くな」と言っていた彼は、京都のお寺の地上げがらみで暴力団とのイザコザがあり、それを嗅ぎ付けた記者宅に盗聴器を仕掛けるなど、晩年恐怖を感じ、異常な行動を示していた。読売新聞務台社長の懐刀といわれ、中部読売新聞社社長から地産グループを率いた竹井友康、彼はその後戦後最高といわれる53億円の脱税で三年半のムショ暮らし、波瀾万丈の人生に、晩年彼は名前を心泉と改め「今は、自分を拝みたいような自分になりたい」と言っていた。何千人とインタビューや対談をしてきたが、中小企業のおやじにしろ著名人にしろ、世に何かをなした人というのは、なにかしら学ぶところがあった。また、いろいろ恨みもし、感謝もし、人生とは複雑なものだが、とにもかくにも俺なりのジャーナリズム人生はこうして終わった。機械工として油まみれになって俺たちを育ててくれたおやじを見て、「資本家に安い賃金で働かされているだけじゃねえか。俺はおやじみたいに絶対なるもんか」、そう思ってヘンテコリンな人生を送ってしまった俺を見て、おやじはきっと墓場で笑っているに違いない。青春哲学の道は当初(1)のみで終わりだったが、なんだかダラダラと自分の一生を綴ってしまった。どもりだったまさおっちが、以来、文学とブラックジャーナリズムの狭間のなかで、それなりに社会に対してサシで勝負してきた人生に、ある意味納得はしている。が、今も病気の後遺症で何をやっても神経が二時間しか持たず、空疎な心にパチンコ台と「闘い」格闘し続けているしかないとはなさけないが、女とは勝手なもので、何不自由ない生活が手に入ると、パチンコ通いの俺に「あなたは夢のない情けない男」と罵倒された時があり、激怒した俺は区役所で離婚届をもらい、女房に突き出したこともあった。確かに「闘い」を忘れた男は情けないに違いない。それは自分が一番よく知っているところだった。しかし「闘う」ことを忘れた俺は、もう、人生の終末に近づいているのだろう。・・長い間、ご精読ありがとうございました。(完)


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-10-09 07:38:06
おっさん読みづれぇよ。お前「改行」って知らないの?頭悪いんじゃない?

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