新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「格差とは」の加筆訂正版

2014-10-26 14:48:54 | コラム
今朝ほどエントリしたものを加筆訂正して掲載します。

私は昨25日に全く思いもかけなかったご縁で、この由緒正しき講座を拝聴する機会を得た。講座の演題は「為政者はかくあるべき-理想の国家像の実現を目指して」であって、パネラーは自民党の船田元代議士と民主党の長妻昭代議士だった。約2時間半の討論の内容はそれなりのもので無難な線であったが、告白すれば私は現職代議士が語るのを直接生で聞いたのは初めてだった。

質疑応答に移ってから「話題に上っていた格差とは何か。その定義は一般論としても不明確だ」という質問が出た。討議された話題の中には「格差が広まりつつあるのは良いことではない。だが、共産主義国ではない以上悪平等もあってはならない」があったので、かかる疑問が呈されたのには興味深いと思って聞いていた。両代議士の答えには目新しいものはなかったと記憶する。「格差が生じるのは仕方がない面があるが、その拡大はあってはならない」辺りだったか。

私は格差社会の最先端を行っているかと思うアメリカの、それも(20世紀末までは)アメリカどころか世界最大級の紙パルプ・林産物産業の会社に勤務していたので、言うなればその格差の頂点かそれに近い位置にいた人たち(私は全米の5%としたが)の中で働いていたと思っている。だが、私は偶々そういう会社に転身しただけであって、他の階層の実態など知り得るはずもなく、また格差国の中にいたという意識すらなかった。

ではあっても、それなりに自分が属していた会社以外の層に属する人々にも触れるか機会もあったし、社内で出世の軌道(speed track等と言うが)とは全く縁のない諦観の世界に入ってしまった人たちとも語り合うこともあった。彼等は「差を付けられているのは当たり前で、speed trackに乗っているか昇進してしまった連中は、望んでそこに行ったのである。自分はそれを望んでいなかったのだから差が付くのは当然。現在の身分と収入で十分」等と言うのだった。

このようなことを言う人は我が国の企業世界には滅多にいないと思うし、それのみならず未だアメリカ式の”speed track”は存在していないのではと思うのだ。我が国では有名大学など出なくとも入社後の努力が報いられて役員にもまたそれ以上の地位に昇れる機会は十分に温存されていると思う。ここに言うspeed trackとは有名私立大学のMBAやPh.D.を持って入社してくる幹部候補生が乗っていく軌道を指している。

上記のぼやきは「格差を付けてみせつけられる」層と言うか、そういう世界に入っても圏外にいる人が言うことで、彼等がいる世界以外の層との格差などを考えて言っている訳ではないだろう。繰り返して指摘してきたことだ、アメリカという国では横並び一列と形容した複数の層の間の移動は希であり、各人が生まれながらに属してしまった層と、他の層との違いや収入面の開きを容易に埋めて行けない世界だなと割り切って眺めてきた。

そういう国である以上、我が国に広まりつつある格差を論じる際の基準にはならない国だと思っている。我が国はアメリカとは比較にならない自由であり平等が保証されており、勉学等に真剣に励めば政治・経済・学問等の分野で身分の垂直上昇は言うに及ばず、それぞれの場で世界的権威になれる機会が与えられているではないか。この状態を称して民主的かあるいは悪平等だ等と言う意見すらある。

私はアメリカには「雇用機会均等」の法律(Equal employment opportunity)があって平等(特に男女間の)を保証していることの裏面には「そうではなかった」と問われず語り?をしていることに他ならないと思っている。申し上げたかったことは「我が国における格差の広がりなどはアメリカと比較すれば未だ未だ小さいのではないか」なのである。

「格差拡大論」からは少し外れたかも知れないが、昨日「格差とは」との質問が出たのを聞きながら以上のように考えていたのだった。私は我が国における格差はアメリカとは異なって各層が縦型に並んでいて、才能と努力次第では学歴も関係なく身分も地位も垂直上昇の機会が残されている極めて公平な世界があるのだと信じている。

以下が加筆部分:

ここまでをさらに補足して言えば「アメリカでは最初から社会の構造に格差が組み込まれている」と思っている。即ち、我が国のようにアメリカ式の貧富や身分や人種の差別がない国で格差が生じ始めたのとは、根本的に違いがあるのだ。いえ、大違いだろう。少なくとも、私が勤務した2社での経験から層としか認識できなかった。

私は「アメリカとはその低収入の層から脱するためには音楽、芸術、プロスポーツ等の世界に出ていくのか極めて有効な手段である国だ」と見ている。私は「我が国は努力次第で身分の垂直上昇もあれば収入の大幅な増加も獲得出来る(可能になる)、平等がある程度以上保証されている世界がある」と認識している。そもそも日米間では「格差」の質が異なるのだ。

何時だった見る機会があった、サンフランシスコのハイヤットリージェンシーの裏の広場で帽子を置いて投げ銭に期待してブレークダンスをやって見せていた白人とアフリカ系の人たちが、何時の日にかあの町の”Financial district”(金融証券街)に20数万円のスーツを着て高級なブリーフケースを持って闊歩することなどあり得ない世界だ。一方の我が国では「絶対にあり得ない」と断定できないのではないか。その違いだろうと思う。

私が見た限りのアメリカでは大手企業の世界には入れても、そこで天文学的な収入を得ることが出来るspeed trackに乗れる者の数は最初から限定されているだろう。しかも「そういう連中は別だという認識がある」と感じた。

私は「我が国における格差拡大」の主たる要因には、後難を怖れて言えば「経営者の劣化に起因する意気地のない経営」を挙げたいのだ。実は、以前にそれと同じようなことだと思って「団塊の世代のせいだ」と言ったことがあった。その反響は非難囂々どころか大ブーイングだった。私はかえって「この反響があったこと言うことは、彼等には自覚症状があるのでは」と思い込んだのだった。実はここまで書きながら既に後難を怖れている。

格差とは何か

2014-10-26 08:14:02 | コラム
第995回 武藤記念講座で:

私は昨25日に全く思いもかけなかったご縁で、この由緒正しき講座を拝聴する機会を得た。講座の演題は「為政者はかくあるべき-理想の国家像の実現を目指して」であって、パネラーは自民党の船田元代議士と民主党の長妻昭代議士だった。約2時間半の討論の内容はそれなりのものであったが、告白すれば私は現職代議士が語るのを直接生で聞いたのは初めてだった。

質疑応答に移ってから「話題に上っていた格差とは何か。その定義は一般論としても不明確だ」という質問が出た。討議された話題の中には「格差が広まりつつあるのは良いことではない。だが、共産主義国ではない以上悪平等もあってはならない」があったので、かかる疑問が呈されたと思って聞いていた。両代議士の答えには目新しいものはなかったと記憶する。「格差が生じるのは仕方がない面があるが、その拡大はあってはならない」辺りだったか。

私は格差社会の最先端を行っているかと思うアメリカ、それも(20世紀末までは)アメリカは言うに及ばず紙パルプ・林産物産業界では世界最大級の会社に勤務していたので、言うなればその格差の頂点かそれに近い位置にいた人たち(私は全米の5%としたが)の中で働いていたと思っている。だが、私は偶々そういう会社に転身しただけであって、格差国の中にいたという類いの意識は皆無だった。

ではあっても、それなりに自分が属していた会社以外の人々にも触れるか機会もあったし、社内でも出世の軌道(speed track等と言うが)とは全く縁のない諦観の世界に入ってしまった人たちとも語り合うこともあった。彼等は「差を付けられているのは当たり前で、speed trackに乗っているか昇進してしまった連中はそこに行来たくて行ったのであるが、自分はそれを望んでいなかったのだから差が付くのは当然。現在の身分と収入で十分」等と言うのだった。我が国の企業世界には未だアメリカ式の”speed track”は存在していないのではと思うのだ。

これは「格差を付けてみせられる」層と言うか、そういう世界にいながら取り残された人が言うことで、それ以外の層との間の開きなどを考えて言っている訳ではないだろう。繰り返して指摘してきたことだ、アメリカという国では横並び一列と形容した複数の層の間の移動は希であり、各人が生まれながらに属してしまった層と、他の層との違いや収入面の開きを容易に埋めて行けない世界だなと割り切って眺めてきた。

そういう国である以上、我が国に広まりつつある格差を論じる際の基準にはならない国だと思っている。我が国はアメリカとは比較にならない自由であり平等が保証されており、勉学等に真剣に励めば政治・経済・学問等の分野で身分の垂直上昇は言うに及ばず、それぞれの場で世界的権威になれる機会が与えられているではないか。この状態を称して民主的かあるいは悪平等だ等と言う意見すらある。

私はアメリカには「雇用機会均等」の法律(Equal employment opportunity)があって平等(特に男女間の)を保証していることの裏面には「そうではなかった」と問われず語り?をしていることに他ならないと思っている。申し上げたかったことは「我が国における格差の広がりなどはアメリカと比較すれば未だ未だ小さいのではないか」なのである。

「格差拡大論」からは少し外れたかも知れないが、昨日「格差とは」との質問が出たのを聞きながら以上のように考えていたのだった。

Ebola disease

2014-10-25 08:36:40 | コラム
悲観論者としてはEbolaを新たな脅威に加えて置けば良かったかと思っている:

この病の恐ろしさは、NYに帰国したアメリカ人医師が発症したことでも増幅された。イスラム国から帰国した者がいたと仮定して、如何にして帰国ないしは入国を阻止するかは難しいと述べたばかりだが、エボラ出血熱(本音を言えば「イボラ」としたいのだが)の潜伏期間中にあるその診療に当たっていた医師等の帰国者または他国からの入国者を水際で食い止めることなどは、言うべくして不可能に近いのではないのか。

あのNYでの医師の帰国後のあの行動の根拠は部外者の私には解る訳がないが、アフリカからの帰国者も入国者などは何処の国にでも日常的に沢山いるのではないだろうか。その人たちを検査して阻止するとか、帰国ないしは入国後に四六時中看視し続けるなどは物理的にも極めて難しいことだろう。かと言って、アフリカからの入国一切お断りなどと世界に表明出来るるのだろうか。

私は大変な危険が迫った難しい事態が近付いたかと真剣に怖れており、同時に杞憂に終わってくれることも本気で願っている。確か、NY州知事だと思ったが「出来ることは全てやって、これ以上の広がりを阻止する」と述べていた。我が国には富士フイルムの系列会社が創り出した薬があることだし、厚労省は何が何でも速効で承認して欲しい。

私は政府はこの難病が向こう側の火事と受け止めてはいられない事態になって来たと考えて、出来ることの全てをやって貰いたいと願っている。さもなければ、アフリカへの出国も帰国も禁じるしかなくなるとすら怖れている。さらに、シリアもリストに加えても良いかとすら怖れている。国際化を信奉し有り難がり推進したい方々、これがその見返りか代償の一部だとご認識願いたい。

新たな脅威

2014-10-25 08:10:26 | コラム
イスラム国の脅威の考察:

私には急速に増大しつつあるこの団体なのか、あるいは拡大解釈しての「国」なのか明確に定義されていない組織がもたらす脅威は、イスラム教なのかあるいはイスラム教徒のものなのか全く解らない。だが、極めて恐ろしくなりつつあるのは確実だと思えてならない。新たな動きでは、アメリカでもカナダでもイスラム教過激派と見なされた者たちの暴挙があったではないか。

昨24日の夜に、好みではないテレ朝の報道ステーションを聞いてしまった。そこでかわされていた話題がイスラム国関連で、ゲストの岡本行夫はロンドンから帰国したばかりだそうで、現地で取材したとか言う「既にUKからは500名、オーストラリアからは150名がイスラム国に参加した」と語っていた。この番組を見たことを弁明すれば、番組表を見誤って見てしまったのだが。

私がこの数字よりも遙かに脅威だと感じたのが、次ぎに岡本か古館かの何れかが指摘した「その連中がもし何らかの目的を持たされて帰国した時にそれを阻止する手段があるのか」だった。即ち、その場合にどのような根拠でパスポートその他を検閲して「イスラム国帰り」と断定し、尚且つ帰国を拒む合理的ないしは合法的な手段があるのかと」と言いたいのだ。帰ってこられて何をするかは容易に想像できるだろう。

さらに薄気味悪いと感じたのは、我が国にも既にイスラム教に帰依してイスラム国入りを意図している若者が出てきている事実だ。先頃の休学中とやらの北大生の場合は何とか食い止めた。だが、仮にシリヤ以外の外国経由でイスラム教国に参加されていたとすれば、入管で帰国の理由を問い出さるものかと考え込んでしまう。

さらに想像を広げれば、そういう者がもしいたとして、イスラム教の布教を図った場合に阻止すれば「信教の自由」を奪うことになってしまうだろう。欧米で既にイスラム国に憧れた者たちがあれほどの数で発生していた以上、我が国でも今後そういう事態が起きないか起こさせないという保証が出来るのだろうかと危惧してしまう。

以前にも述べたが、私には現在のイスラム教の在り方は理解不能である。イスラム教がその大元からしてキリスト教徒ユダヤ教徒の間に何千年もの間の歴史がある諍いがあるくらいは解る。だが、それと現在のイスラム国との間に何の合理的結びつきがあるのかは不勉強にして全く解らない。

その世界的に大問題と化しつつあるイスラム国への対応の仕方に、私が外交政策の面でも優柔不断と批判し続けて来たオバマ大統領の対策の遅れがあったと指摘する。即ち、アメリカが事態を悪化させた要因を作ってしまったと言いたいのだ。今ごろ空爆を始めたのは単なる言い訳のための言い訳かと考えてしまう。

私は一般論として考える時に、イスラム教徒がその戒律というべきか、コーランの教えにか、あそこまで徹底して従う姿勢には感心するとともに、その信心振りには怖いものがあるとすら感じてしまう。その教えに従う為には死をも厭わない点があるので、自爆テロをも辞さないと聞かされれば、他の宗教の信者の理解を超越した何かがあるのだと思ってしまう。

私は矢張り我が国でも国の内でも外でも、具体的なイスラム国対策を可及的速やかに打ち出す必要があると思うに至った。私は老いも若きも「無宗教だ」等と公然と言える文化には、新鮮な響きがあるかも知れない新興勢力に付け込まれる心の隙があると危惧するから言うのだ。

ノーベル賞受賞の修二、中村教授に思う

2014-10-24 16:25:00 | コラム
受賞前に“tenure”を確保された実力に敬意:

私は中村教授にはここに至って一寸「毀誉褒貶相半ばする」といった風に感じさせられるのですが。だが、 UCは州立大学であっても全米で上位の州立大学に格付けされる質の高い大学で、そこでtenured positionとは矢張り只者ではないとその実力に敬意を表します。だが、米国籍まで取ってしまうほどではその方が万事都合が良いのかとも懸念しますが。

余計なことかも知れませんが、我が友YM氏はヴィザ申請の度にアメリカ大使館で「この経歴と職業ならば直ぐにでもグリーンカードが取れるし、市民権も」と勧誘されて「いたしません!!」と断り続けたそうで。「何で?」と担当官に怪訝な顔をされたとか。中村教授と彼の何れが変わっているのでしょうか。

恐らく中村教授という方は、自分一人で何でもしたがる方(ホウ)で、あの受賞演説でもしきりにfreedomと言っておられたことからして、我が国の「皆で一丸となって」や「欠席すると皆に迷惑がかかる」どころか、アメリカで言う「maternity leave(」出産休暇)を取るなら辞めろというteam workの世界」とはとても相容れないのか、ないしは体質が合わなかったのでしょう。

私にも確かにアメリカ式な勤務の仕方と出退勤には、良い面というか都合が良いなと思わせてくれる面がありました。だが、遅刻もなく、自分の都合で出勤・退勤しても構わず、有休を取ろうと何だろうと誰にも関係なく、仕事がたまって困るのは自分だけという、気楽な(ズボラでも何処からも苦情が来ない)世界は我が国の会社では望めないので中村教授が言われたfreedomは感じました。だがしかし、何処までやって良いのかという限度が解らず、正直に言って怖い面もありました。

このような文化の違いは目に見えないというか無形の怖があります。私の場合はそこを補ってくれたのが秘書の存在で、私の至らざる面を補ってくれてなお余りある能力でした。彼女とのコンビになってからの12年間を恙なく(いえ、正直に言えば多少以上ありましたが)リタイヤーまで引っ張ってくれました。中村教授もさぞかし有能な秘書さんと助手を従えておられるものと推察します。これはあの世界では必要欠くべからざることです。

話が変わりますが、中村教授の能力と実績に加えてノーベル賞受賞ともなれば、この先に先生は”tenure”以上、アメリカとUCに何を求められるのでしょうか。関心があります。私が失礼を顧みずに言えば、研究以外の面で”you know”連発の話し方をもう少しだけ、ほんのすこしだけ改良されると一層素晴らしいかなと思うのです。何れはその辺りを問われる場面が出てくるかと危惧するものです。

又もや余談かも知れませんが、University of California(=UC)はかの有名なる旗艦校の通称”Cal”のBerkeley(バークレー)等の10大学で構成されています。それぞれが独立の大学として運営されているのです。言うまでもないことで、所謂”UCLA”はLos Angeles校のことなのです。