新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私のものの考え方

2020-12-19 12:33:04 | コラム
アメリカの社会と英語の思考体系の影響があると思う:

私は子供の頃から英語に慣れ親しみ、特に戦後間もなくからGHQの秘書の方に「英語で話す時は英語だけで考えること。日本語から切り離すこと」を厳しく教え込まれていた。その基礎の上に39歳になって思いもかけなかった(移りたいとも、移ろうとも、移れるとも思っていなかった)アメリカの会社に転進してしまった為に、全く異なる文化と思考体系の人たちの中で22年半も過ごしたので、少なからず彼らの思考体系と英語によるものの考え方の影響を受けていたと思う。

結局、言わば「習い性」となってしまったので、考え方がやや特異のものになっていると自覚している。その辺りをあらためて振り返って、何処がアメリカ式かを考えて見ようと思う。「なるほど。だから彼の考え方に違和感を覚えるのか」と、お認め願えれば幸甚である。

私の持論の一つに「マスコミが好む『真実は一つ』は同感できない。本当の事はといえば『出来事が一つ』なのであって、それを見る角度、立場、知識、見解、視野によって異なって見えてくるものである」というのがある。私が永年見て、聞いて、経験してきた白人が支配し、彼ら以外にもminoritiesと言われる少数民族で構成され,多くの階層に分かれているアメリカが「我が国に生まれ育たれ、学校で勉強され、読書や多くの専門家の論文や著作や、駐在や留学の経験から知り得た皆様方のアメリカとは同じではない」と思っている。

この辺りを別な角度から見れば「人はそれぞれ様々でありものの見方考え方、思想や意見は異なっていて当然である」と考えているのがアメリカ式であると思う。換言すれば、各人の主体性で動いている国なのだ。故に、他人の意見や見解が自分と異なっている場合には、確かに議論もするし突っ込んだ意見の交換もする。だが、彼らは他人の考えを否定したり非難したりするような討論には持っていかない。即ち、お互いに個性を尊重し合うからだし、感情的な議論にはならない。この辺りが我が国の国民性との違いのように思える

その個人の主体性であるが、ウエアーハウザーに移ってから、日系人で州立大学の雄であるワシントン大学のMBAの日本駐在の副社長補佐に厳しく叩き込まれたことがあった。それは「本部の上司に提出する日常の報告書の書き出しを“we”ではなく,必ず“I”から書き出すこと」だった。これは英語に言う”I attitude“であり「書き手は上司に伝聞を報告するのではなく、飽くまでも自分の意見を述べよ」ということだった。

上司というか会社は担当者個人の報告を聞きたいのであって、第三者が言ったことなどには興味も関心もないと言う意味だ。どうしても伝聞を報告したければ「それに対する各人の意見や判断を加えておくこと」となるのだ。私の上司だった副社長兼事業部長は「私は遙か5,000マイルを伝聞を聞きたくて飛んできたのではない。担当の君自身の意見を聞きたいのだ」と常に言っていた。ここでの要点は「その意見が正しいとか間違いであるかの問題ではなく、各人の本音というか心からの意見を言え」なのである。

この「自分の意見や考え方を言う」というアメリカのビジネスの世界での報告に仕方の影響から未だに離れられていない私は、日本語で書いても常に「私」から入って行くのだ。これは同時に英語と日本語の違いの表れでもあると思う。即ち、英語では必ず「主語+述語(動詞)」の形を採らねばならないが、日本語の文章には屡々動詞から入って主語がない場合があるが、それでも以心伝心で先方には主語が何かは解って貰えるのだ。この辺りの英語のしつこさを良く理解しておかないと「何で通じないのかな」となってしまうのだと思っている。これぞ、将に思考体系の相違点だ。

未だ未だこれら以外にも相違点が多々あると思うが、今回はここまでにして、またの機会に譲ろう。