70『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ
とはいえ、白村江での敗戦から2年後の665年には、第5回目の遣唐使が派遣される。守大石(もりのおおいわ)・坂合部石積(さかいめのいわしき)なとが大陸に渡る。現代流に言うと、国交が回復されたことになるのだろうか。振り返れば、第1回は630年に犬上御田鍬なが、2回目は653年に吉士長丹・道昭などが、3回目は654年に高向玄里などが、4回目は659年で坂合部石布などが派遣されていた。
なおこれ以後、6回目が669年に河内鯨らが、7回目として702年に粟田真人・山上憶良らが、8回目は717年に多治比県守・吉備真備・阿倍仲麻呂・玄肪などが、9回目は733年に多治比広成らが、10回目752年に藤原清河・吉備真備らが、また帰り船で鑑真が754年に渡来する。11回目は759年に高元度らが、12回目は761年として企画されるが派遣中止となる。13回目は762年に中臣鷹主(渡海せず)らが、14回目は777年に佐伯今毛人らが、15回目は779年に布勢清長らが、16回目は804年に藤原葛野麻呂・最澄・空海らが、17回目は838年に藤原常嗣、円仁らが派遣される。そして18回目として894年に菅原道真らが遣唐使に任命されるも、派遣中止となる。
667年には、朝廷が近江の大津に宮を移す。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、668年(天智元年)に大王に即位する。中国の唐と組んだ、朝鮮半島の新羅が百済を滅ぼした2年後のことであった。高句麗も四度、唐・新羅連合軍に抵抗したものの、668年ついに降伏する。かると今度は、唐が都護符を遼東(リヤオトン半島)に置いて朝鮮半島に触手を伸ばし始める。新羅は反抗に転じる。これには旧二国の遺民も抵抗する形で、やがて迎えた676年新羅が都護符を遼東へと退けることで、朝鮮半島の統一を果たすのであった。
倭国の方では、天智大王の即位の3年後の671年、大王は「近江令」(おうみりょう)に基づき、太政官制を敷いた。長男の大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣に任命する。彼を補佐する左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金、御史大夫(令制の大納言)には蘇我果安、巨勢人(こせのひと)、紀大人の三人を起用する。その翌年の672年には、天智天皇が近江宮で死去した。668年(天智元年)に即位してから、4年後のことであった。
「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれる宮廷クーデターが起きた。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)が戦いに敗れ、これを倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が力づくで天下人にとって代わるのである。
なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとの考えもあって、現在までのところ確かなところはわかっていない。
ところで、この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
これについての資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。
なお朝鮮半島の動静を追加すると、7世紀いったん唐の統治下に入っていた旧高句麗領の東北部の住民が蹶起して、渤海国を建てる。その後は唐の懐柔策に応じて朝貢し、王朝の機構を整えていく。倭との間に使節を送り合う関係になり、奈良・平安期に至るまで有効関係を保っていく。
(続く)
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