153『岡山の今昔』県境から新庄、美甘そして勝山へ
新庄(しんじょう)村といえば、岡山県内では最も北西部に位置している、今も真庭郡内の独立した自治体だ。この辺りの山の麓は、出雲地方から連なる古代より鉄の産地であった。小谷善守氏の新庄案内中から、少し引用させてもらおう。
「鳥取・岡山県境の連山に囲まれた山村だが、谷々に峠道があり、伯耆(ほうき)、備中、蒜山(ひるせん)、大山とも結び付きが強く、交流が盛んだったことをうかがわせる。大山の南壁が望める乃登呂(のぎとろ)(野土路)乢(たわ)の頂上には、大山参り、牛馬市に通った人々のために立てられた大山道標がいまもひっそりと残っている。」(小谷善守「出雲街道」第1巻「松江ー米子ー新庄ー美甘」「出雲街道」刊行会、2000)
「森藩末期だが、元禄期の鉄生産には、真庭郡勝山町、伯州(ほうしゅう、鳥取県西部)や伯州又野村(鳥取県日野郡江府町)の鉄山経営者、砂鉄の購入など、かなり広い交流をみることができる。山に囲まれた国境の村だが、人々の出入りもあり、情報も多かったのではないか。その源が山を仕事場にしていた木地師(きじし)であり、タタラ(鉄山)で働く人たちだったと思える。」(小谷、前掲書)
ここに木地師とは、トチ・ブナ・ケヤキといった広葉樹の木を伐採し、ロクロと呼ばれる特殊な工具を使って、盆や椀、弁当箱からコケシなどの愛玩物まで、多彩な木工製品を作る職人たちをいう。
江戸時代には、鳥取藩などの参勤交代の際の宿場町として栄えたところとして広く知られる。
また、ここの「凱旋(がいせん)」通りの約400メートル位の間には、桜が植わっていて、その桜とは、1906年(明治39年)、宿場町の街道の両側に日露戦争での戦勝を記念して桜を植えた話と聞く。その由来はどうであれ、今では開花時に多くの花見客を惹き付けているというから、ぜひその桜並木の間をゆるりと歩いてみたいものだ。
美甘(みかも)の辺りも、引き続いての山あいの町にちがいない。周囲を標高1000メートル級の山塊に囲まれ、村内の主な集落も600m級の丘陵平坦地に形成されている。小谷氏の前掲書には、次のように述べられている。
新庄(しんじょう)村といえば、岡山県内では最も北西部に位置している、今も真庭郡内の独立した自治体だ。この辺りの山の麓は、出雲地方から連なる古代より鉄の産地であった。小谷善守氏の新庄案内中から、少し引用させてもらおう。
「鳥取・岡山県境の連山に囲まれた山村だが、谷々に峠道があり、伯耆(ほうき)、備中、蒜山(ひるせん)、大山とも結び付きが強く、交流が盛んだったことをうかがわせる。大山の南壁が望める乃登呂(のぎとろ)(野土路)乢(たわ)の頂上には、大山参り、牛馬市に通った人々のために立てられた大山道標がいまもひっそりと残っている。」(小谷善守「出雲街道」第1巻「松江ー米子ー新庄ー美甘」「出雲街道」刊行会、2000)
「森藩末期だが、元禄期の鉄生産には、真庭郡勝山町、伯州(ほうしゅう、鳥取県西部)や伯州又野村(鳥取県日野郡江府町)の鉄山経営者、砂鉄の購入など、かなり広い交流をみることができる。山に囲まれた国境の村だが、人々の出入りもあり、情報も多かったのではないか。その源が山を仕事場にしていた木地師(きじし)であり、タタラ(鉄山)で働く人たちだったと思える。」(小谷、前掲書)
ここに木地師とは、トチ・ブナ・ケヤキといった広葉樹の木を伐採し、ロクロと呼ばれる特殊な工具を使って、盆や椀、弁当箱からコケシなどの愛玩物まで、多彩な木工製品を作る職人たちをいう。
江戸時代には、鳥取藩などの参勤交代の際の宿場町として栄えたところとして広く知られる。
また、ここの「凱旋(がいせん)」通りの約400メートル位の間には、桜が植わっていて、その桜とは、1906年(明治39年)、宿場町の街道の両側に日露戦争での戦勝を記念して桜を植えた話と聞く。その由来はどうであれ、今では開花時に多くの花見客を惹き付けているというから、ぜひその桜並木の間をゆるりと歩いてみたいものだ。
美甘(みかも)の辺りも、引き続いての山あいの町にちがいない。周囲を標高1000メートル級の山塊に囲まれ、村内の主な集落も600m級の丘陵平坦地に形成されている。小谷氏の前掲書には、次のように述べられている。
「新庄・美甘の村境は、谷が狭くなり、新庄川がカーブしていく。新庄側の左岸(南側)が大所、右岸が長床(ちょうとこ)地区。新庄川が谷を出ると、ぱっと東へ開ける。美甘盆地。南岸が山路。続いて宇南寺になる。北岸は、国道181号線が盆地の中央を真っすぐに貫いている。村境の羽仁(はに)から東へ、野尾、平島上、同下、片岡、当政、麓、続いて盆地東端の美甘宿場(町)となる。ここには、役場、学校があり、現在も村の中心だが、鉄山(かなやま)、黒田地区にも通じていく。街道は、そのまま新庄川に沿う渓谷へ入り、真庭郡(旧真島郡)の中心地、勝山の町(旧高田村)と結んでいる。」(同、前掲書)
この辺りは、古来より、「たたら製鉄」などの鉱業・製鉄業では産地の一つであり、明治時代中期頃まで栄えたという。
それと、古来より出雲・山陰と山陽を結ぶ要衝にあった為に、常に戦火に見舞われ続けてきた土地柄だ。新庄村の東に位置する美甘地区は、新庄村と共に出雲街道の宿場町として発展した町並みが今も残る。
この地区を通る出雲街道が本格的整備の開始としては、やはり、津山藩によって新庄と高田(後の勝山)に宿場町が設置されたことにあろう。高田と新庄の中間に位置する美甘は、人馬の休憩所、中継点としてちょうど良く、整備されていく。やがての1666年(寛文6年)に津山藩がお茶屋を、1775年(安永4年)には松江藩が本陣をこの美甘に置いた。それらにより、事によって、商家や旅籠屋が軒を連ね、宿場町へと成り変わっていく。江戸期の文献には、最盛期には、街道沿いの約240メートルの間に33軒の家並みが並んだされる。
勝山の辺りの21世紀を迎える前までの、およその地理案内については、郷土史家の小谷善守はこう記している。
「美作西北部は、古くから明治まで、およそ旭川を隔てて東を大庭(おおば)、西を真島(まじま)の二郡に分かれているが、1900年(明治33年)4月、両郡が合併し、真庭郡になっている。
高田村(勝山の町)は、高田城が築かれた北の如意山に続く旦(だん)と呼ばれている台地のふもとに、平野部が広がっている。西と南を旭川が流れ!東の久世町境は、旭川まで山が迫っている。旭川の西岸は、旧本郷、三田、組、横部村(現在は勝山町)になり、南岸は、旧草加部村(現・久世町)。山を旭川に囲まれた狭い盆地だが、旭川東岸の大庭郡内に入り込んでいるのが、真島郡高田村。
東に続く旧久世村と同じように大庭郡になっていないのは、不思議だが、地形は、四方を山と旭川に囲まれ、独立している。大庭郡内に入り込んでいったのか、理由は不明だが、岡山・鳥取県の蒜山(ひるせん)の源にする旭川、支流となる新庄川(しんじょうがわ)が合流し、北の村々の出入り口に当たる位置。北の物質の集散地であり、人々の往来のかなめだったに違いない。14世紀に東国から入った先・三浦氏が、旭川、各街道を見下ろす高田の地に拠点を置いたのもうなずける。」(小谷善守「出雲街道」第2巻「勝山ー久世」「出雲街道」刊行会、2000)
それと、古来より出雲・山陰と山陽を結ぶ要衝にあった為に、常に戦火に見舞われ続けてきた土地柄だ。新庄村の東に位置する美甘地区は、新庄村と共に出雲街道の宿場町として発展した町並みが今も残る。
この地区を通る出雲街道が本格的整備の開始としては、やはり、津山藩によって新庄と高田(後の勝山)に宿場町が設置されたことにあろう。高田と新庄の中間に位置する美甘は、人馬の休憩所、中継点としてちょうど良く、整備されていく。やがての1666年(寛文6年)に津山藩がお茶屋を、1775年(安永4年)には松江藩が本陣をこの美甘に置いた。それらにより、事によって、商家や旅籠屋が軒を連ね、宿場町へと成り変わっていく。江戸期の文献には、最盛期には、街道沿いの約240メートルの間に33軒の家並みが並んだされる。
勝山の辺りの21世紀を迎える前までの、およその地理案内については、郷土史家の小谷善守はこう記している。
「美作西北部は、古くから明治まで、およそ旭川を隔てて東を大庭(おおば)、西を真島(まじま)の二郡に分かれているが、1900年(明治33年)4月、両郡が合併し、真庭郡になっている。
高田村(勝山の町)は、高田城が築かれた北の如意山に続く旦(だん)と呼ばれている台地のふもとに、平野部が広がっている。西と南を旭川が流れ!東の久世町境は、旭川まで山が迫っている。旭川の西岸は、旧本郷、三田、組、横部村(現在は勝山町)になり、南岸は、旧草加部村(現・久世町)。山を旭川に囲まれた狭い盆地だが、旭川東岸の大庭郡内に入り込んでいるのが、真島郡高田村。
東に続く旧久世村と同じように大庭郡になっていないのは、不思議だが、地形は、四方を山と旭川に囲まれ、独立している。大庭郡内に入り込んでいったのか、理由は不明だが、岡山・鳥取県の蒜山(ひるせん)の源にする旭川、支流となる新庄川(しんじょうがわ)が合流し、北の村々の出入り口に当たる位置。北の物質の集散地であり、人々の往来のかなめだったに違いない。14世紀に東国から入った先・三浦氏が、旭川、各街道を見下ろす高田の地に拠点を置いたのもうなずける。」(小谷善守「出雲街道」第2巻「勝山ー久世」「出雲街道」刊行会、2000)
この辺りは、中世以前にもそれなりの様々なレベルからの生活上の集散があり、ゆるやかであれ発展してきたのであろう。いま、その跡が見えるという南北朝時代(1360年頃)に高田の地頭(じとう)三浦貞宗(みうらさだむね)が築いたものだと伝わる。
その「先・三浦氏」の後しばらくしての、戦国時代の東西南北からの争乱のせめぎあいを経て、江戸時代に入っていく。その走りでいうと、津山の森藩、次いで幕府領、そして1764年から明治維新までは三浦氏(後・三浦氏)を領主とした勝山藩(この時、高田を勝山と名称変更)となっていた。この勝山藩政時代の出雲街道沿いには、酒屋や醤油屋から菓子屋などの雑貨商いに至るまで商家なども軒並を並べていたという。さらに昭和のはじめまでは、当地を起点に高瀬舟が往来していた。積み荷としては、「岡山への下り舟には鉄や米、木炭(もくたん)、たきぎ、木工品などをのせ、帰りは塩やほし魚、海産物や生活用品などを運んでいた」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」みまさかの歴史絵物語(7)、1992)という。
(続く)
その「先・三浦氏」の後しばらくしての、戦国時代の東西南北からの争乱のせめぎあいを経て、江戸時代に入っていく。その走りでいうと、津山の森藩、次いで幕府領、そして1764年から明治維新までは三浦氏(後・三浦氏)を領主とした勝山藩(この時、高田を勝山と名称変更)となっていた。この勝山藩政時代の出雲街道沿いには、酒屋や醤油屋から菓子屋などの雑貨商いに至るまで商家なども軒並を並べていたという。さらに昭和のはじめまでは、当地を起点に高瀬舟が往来していた。積み荷としては、「岡山への下り舟には鉄や米、木炭(もくたん)、たきぎ、木工品などをのせ、帰りは塩やほし魚、海産物や生活用品などを運んでいた」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」みまさかの歴史絵物語(7)、1992)という。
(続く)