59『岡山の今昔』大坂蔵屋敷と海運(岡山藩)
18世紀初めの大坂は、人口が約35万人とも言われ、商業経済の中心で、天下の台所であった。そして、この都市の中之島や土佐堀川、江戸堀川べりなど堂島には、紀州藩、佐賀藩、加賀藩、岡山藩、津山藩、松江藩、福岡藩、広島藩、福山藩、長州藩、徳島藩、熊本藩、薩摩藩、それに赤穂藩や龍野藩などの蔵屋敷(くらやしき)がところ狭しと並んでいた。
それらの蔵屋敷の役割としては、主に西日本や北陸・東北地方の藩からの物資、その内訳としては年貢米を筆頭に各地の特産物など(蔵物)であり、それらの多くは、北前船(きたまえぶね)やそれぞれの藩が調達もしくは自前の船により、ここ諸藩の倉庫兼取引所である蔵屋敷に運ばれて来る。
これにより、それらの物資の取引を藩当局から委託された商人、具体的にいうと、蔵物の出納を委託された蔵屋敷の蔵元(くらもと)と、その蔵元が管理をする蔵物を取引をする両替屋(りようがえや)とがある。後者を「掛屋」(かけや)」といい習わし、蔵物を売りさばくについては、大名貸(だいみょうがし)をする両替屋が、大抵かかる蔵元と掛屋を兼ねていた。
これを米の取引でみると、この岡山藩蔵屋敷に荷揚げされ保存されていた米(現物)というのは、現地大坂の堂島(どうじま)にある米会所と商売でつながっていた。その市場の中において扱われていたのは、「米切手」と称する、今日流でいえば一種の証券であって、例えば、米100石(1石とは「合」の1000倍にて、1人1日お米3合食べるとすれば1石で333.33日、つまり約1年、石は1人1年間食べられる量)の現物を証券化したもの。これが先ほど来のひしめき合う中で売り買いされるうちに、値段が上がったり下がったりする訳だ。その差額を狙って、米切手が売買されていたという(取引には江戸中期頃からは先物取引もあるが、ここでは割愛)。
それを今参会者の誰かが100両払ってその分の米切手を落札したとしよう(注)。
18世紀初めの大坂は、人口が約35万人とも言われ、商業経済の中心で、天下の台所であった。そして、この都市の中之島や土佐堀川、江戸堀川べりなど堂島には、紀州藩、佐賀藩、加賀藩、岡山藩、津山藩、松江藩、福岡藩、広島藩、福山藩、長州藩、徳島藩、熊本藩、薩摩藩、それに赤穂藩や龍野藩などの蔵屋敷(くらやしき)がところ狭しと並んでいた。
それらの蔵屋敷の役割としては、主に西日本や北陸・東北地方の藩からの物資、その内訳としては年貢米を筆頭に各地の特産物など(蔵物)であり、それらの多くは、北前船(きたまえぶね)やそれぞれの藩が調達もしくは自前の船により、ここ諸藩の倉庫兼取引所である蔵屋敷に運ばれて来る。
これにより、それらの物資の取引を藩当局から委託された商人、具体的にいうと、蔵物の出納を委託された蔵屋敷の蔵元(くらもと)と、その蔵元が管理をする蔵物を取引をする両替屋(りようがえや)とがある。後者を「掛屋」(かけや)」といい習わし、蔵物を売りさばくについては、大名貸(だいみょうがし)をする両替屋が、大抵かかる蔵元と掛屋を兼ねていた。
これを米の取引でみると、この岡山藩蔵屋敷に荷揚げされ保存されていた米(現物)というのは、現地大坂の堂島(どうじま)にある米会所と商売でつながっていた。その市場の中において扱われていたのは、「米切手」と称する、今日流でいえば一種の証券であって、例えば、米100石(1石とは「合」の1000倍にて、1人1日お米3合食べるとすれば1石で333.33日、つまり約1年、石は1人1年間食べられる量)の現物を証券化したもの。これが先ほど来のひしめき合う中で売り買いされるうちに、値段が上がったり下がったりする訳だ。その差額を狙って、米切手が売買されていたという(取引には江戸中期頃からは先物取引もあるが、ここでは割愛)。
それを今参会者の誰かが100両払ってその分の米切手を落札したとしよう(注)。
(注)ちなみに、1697年(元禄10年)時点での「江戸時代の米1俵は、米4斗(と)入りで、重さにして約60キログラムだから、100俵だと約6000キログラムとなり、価格は42両×12万円で計504万円である」(山本博文「「忠臣蔵」の決算簿」新潮新書、2012)とされている。一方、4斗俵に詰めた場合の米1俵の重さは約60キログラム、また米1石は約150キログラムに見立てられている。これらを合わせることで米100石のおよその値段の目安は105両となろう。
すると、当該分の米俵は岡山藩の蔵屋敷に置いたまま、岡山藩側で振り出したその100石分の証券を受け取るのである。その彼もまた商売なので、100両で買った米切手がこの会所(市場)において120両に値上がりした時に売ることができれば、そのままだと20ドルの儲けとなる話だ。一方、その間の現物米の方は当該米切手の一部分を引き替える必要も起こりうる。例えば、当該蔵屋敷に行き、100石分の米切手から10石分を引き替えたとしても、実際に動く米は10石分しかなく、残りの90石分はそのまま蔵に留まる訳なのだろう。いうなれば、この取引を「10石の現物米で100石の商売ができる」(笠谷和比古(かさやかずひこ)「いま生きる武士道」NHKラジオテキスト、2015年10~12月)ことにもなっていくのであろう。
そんな訳で、両替屋たちは、藩の名義で年貢米や国産品などを売った代金を収納して国元や江戸屋敷へ送る役割などのほぼ一切を担う。実に広範な仕事を請け負うことで、彼らは、藩財政運営上の中心的な役割を担っていた。
そうした商人の中には、地元豪商もあるにはあったものの、それよりも手広く商売している江戸や大坂の豪商が含まれていて、その場合、彼らは関係する藩の財政を実質的に支え、切り盛りする役割を果たすまでになっていた。そして興味深いことに、岡山藩の場合は、江戸時代のかなり早い時期から、鴻池(こうのいけ、江戸と大坂の両替屋、札差(ふださし)からなるでもある)が、その元締めとなっていたという。
念のため、ついでに大元となる両替屋の商売についても、簡単に紹介しておこう。江戸時代の金融を媒介していたのは基本的には幕府が鋳造し、市中に流通させている通貨であった。一つには金貨、二つには銀貨、そして三つにはそれら以下の価値の「銭」の類いに他ならない。金は、両、分(ぶ)、朱(しゅ)の四進法に基づく計数貨幣だ。
次いでの銀は、丁銀(ちようぎん)、豆板(まめいた)を主とする計量貨幣としてある。しかして、その使われ方が面白く、上方では銀遣いが勝っていたものだから、「はやくから両替屋の発達をうながした」(岡本良一編「江戸時代図誌」第3巻、「大坂」筑摩書房、1976)のだ。
そこには、おのずと序列というものがあったらしい。いわく、「大坂の両替屋には本両替・南両替・銭両替の三つがあったが、大資金を有する本両替にもっとも信用があり、中でも鴻池善右衛門・天王寺屋五兵衛らからなる十人両替が大坂の金融界に君臨していた」(同)と伝わる。
それでは、岡山藩の場合、何がどのようにしてこの地に運ばれ、そして売りさばかれていたのであろうか。これの研究に心血を注いだであろう、黒正巌(くろまさいわお)は、まずは運ばれた品物とこれを運搬する海運につき、こういざなう。
「岡山藩が大阪へ移出した主なる貨物米穀、毛綿、櫨(はぜのき)、焼物、石材、木材等にしてその数量は年々甚大であった。これらのうち櫨
には雄雌異株があって、雌株にはロウを取る灰白色の集団小果が実るとのこと。然るに陸上交通機関の発達なお充分でなかった当時に於いては、之等諸貨物は何れも船舶に由て運送せられ、岡山藩内の船舶は毎年増加し、海運業は岡山藩最大産業の一となった。」(黒正巌「岡山藩と大阪との海運」「京都帝国大学経済論叢」)
それでは、藩は、これらの運送をどのようにしていたのだろうか。前掲書には、岡山藩が江戸へ米穀を送る時は、あるいは藩内の民間の船と、あるいは鴻池船と契約して行っていた。ところが、大坂への「登り米」は数量が極めて多いものだから、藩内の民間の船に委ねていたという。しかも、この場合は自由契約ではなく、強制を伴う契約であったという。
「即ち岡山町、金岡、西大寺、片上、北浦、小串及び郡の七個町村の舟持は年々の登り米を村村の舟数に案分して運送するの義務を有すると共に、その運送独占を有するを常とし、特別の事情なき限り他村の船舶が登り米を運送することはなかった。」(同)
こうなると、該当の村村は利益の出る時はよいのかもしれないが、逆に運送上での品物の欠損などが発生した場合には、その分は弁償しなければならぬこともあったのではないか。そのような場合の保険のような仕掛けもなかったようなので、舟持の中には破産する者も出るようなシステムを、藩として敷いていたことになろう。
(続く)
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そんな訳で、両替屋たちは、藩の名義で年貢米や国産品などを売った代金を収納して国元や江戸屋敷へ送る役割などのほぼ一切を担う。実に広範な仕事を請け負うことで、彼らは、藩財政運営上の中心的な役割を担っていた。
そうした商人の中には、地元豪商もあるにはあったものの、それよりも手広く商売している江戸や大坂の豪商が含まれていて、その場合、彼らは関係する藩の財政を実質的に支え、切り盛りする役割を果たすまでになっていた。そして興味深いことに、岡山藩の場合は、江戸時代のかなり早い時期から、鴻池(こうのいけ、江戸と大坂の両替屋、札差(ふださし)からなるでもある)が、その元締めとなっていたという。
念のため、ついでに大元となる両替屋の商売についても、簡単に紹介しておこう。江戸時代の金融を媒介していたのは基本的には幕府が鋳造し、市中に流通させている通貨であった。一つには金貨、二つには銀貨、そして三つにはそれら以下の価値の「銭」の類いに他ならない。金は、両、分(ぶ)、朱(しゅ)の四進法に基づく計数貨幣だ。
次いでの銀は、丁銀(ちようぎん)、豆板(まめいた)を主とする計量貨幣としてある。しかして、その使われ方が面白く、上方では銀遣いが勝っていたものだから、「はやくから両替屋の発達をうながした」(岡本良一編「江戸時代図誌」第3巻、「大坂」筑摩書房、1976)のだ。
そこには、おのずと序列というものがあったらしい。いわく、「大坂の両替屋には本両替・南両替・銭両替の三つがあったが、大資金を有する本両替にもっとも信用があり、中でも鴻池善右衛門・天王寺屋五兵衛らからなる十人両替が大坂の金融界に君臨していた」(同)と伝わる。
それでは、岡山藩の場合、何がどのようにしてこの地に運ばれ、そして売りさばかれていたのであろうか。これの研究に心血を注いだであろう、黒正巌(くろまさいわお)は、まずは運ばれた品物とこれを運搬する海運につき、こういざなう。
「岡山藩が大阪へ移出した主なる貨物米穀、毛綿、櫨(はぜのき)、焼物、石材、木材等にしてその数量は年々甚大であった。これらのうち櫨
には雄雌異株があって、雌株にはロウを取る灰白色の集団小果が実るとのこと。然るに陸上交通機関の発達なお充分でなかった当時に於いては、之等諸貨物は何れも船舶に由て運送せられ、岡山藩内の船舶は毎年増加し、海運業は岡山藩最大産業の一となった。」(黒正巌「岡山藩と大阪との海運」「京都帝国大学経済論叢」)
それでは、藩は、これらの運送をどのようにしていたのだろうか。前掲書には、岡山藩が江戸へ米穀を送る時は、あるいは藩内の民間の船と、あるいは鴻池船と契約して行っていた。ところが、大坂への「登り米」は数量が極めて多いものだから、藩内の民間の船に委ねていたという。しかも、この場合は自由契約ではなく、強制を伴う契約であったという。
「即ち岡山町、金岡、西大寺、片上、北浦、小串及び郡の七個町村の舟持は年々の登り米を村村の舟数に案分して運送するの義務を有すると共に、その運送独占を有するを常とし、特別の事情なき限り他村の船舶が登り米を運送することはなかった。」(同)
こうなると、該当の村村は利益の出る時はよいのかもしれないが、逆に運送上での品物の欠損などが発生した場合には、その分は弁償しなければならぬこともあったのではないか。そのような場合の保険のような仕掛けもなかったようなので、舟持の中には破産する者も出るようなシステムを、藩として敷いていたことになろう。
(続く)
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