新◻️59『岡山の今昔』大坂蔵屋敷と海運(岡山藩)

2022-01-14 22:35:57 | Weblog
59『岡山の今昔』大坂蔵屋敷と海運(岡山藩)

 18世紀初めの大坂は、人口が約35万人とも言われ、商業経済の中心で、天下の台所であった。そして、この都市の中之島や土佐堀川、江戸堀川べりなど堂島には、紀州藩、佐賀藩、加賀藩、岡山藩、津山藩、松江藩、福岡藩、広島藩、福山藩、長州藩、徳島藩、熊本藩、薩摩藩、それに赤穂藩や龍野藩などの蔵屋敷(くらやしき)がところ狭しと並んでいた。
 それらの蔵屋敷の役割としては、主に西日本や北陸・東北地方の藩からの物資、その内訳としては年貢米を筆頭に各地の特産物など(蔵物)であり、それらの多くは、北前船(きたまえぶね)やそれぞれの藩が調達もしくは自前の船により、ここ諸藩の倉庫兼取引所である蔵屋敷に運ばれて来る。
 これにより、それらの物資の取引を藩当局から委託された商人、具体的にいうと、蔵物の出納を委託された蔵屋敷の蔵元(くらもと)と、その蔵元が管理をする蔵物を取引をする両替屋(りようがえや)とがある。後者を「掛屋」(かけや)」といい習わし、蔵物を売りさばくについては、大名貸(だいみょうがし)をする両替屋が、大抵かかる蔵元と掛屋を兼ねていた。

 これを米の取引でみると、この岡山藩蔵屋敷に荷揚げされ保存されていた米(現物)というのは、現地大坂の堂島(どうじま)にある米会所と商売でつながっていた。その市場の中において扱われていたのは、「米切手」と称する、今日流でいえば一種の証券であって、例えば、米100石(1石とは「合」の1000倍にて、1人1日お米3合食べるとすれば1石で333.33日、つまり約1年、石は1人1年間食べられる量)の現物を証券化したもの。これが先ほど来のひしめき合う中で売り買いされるうちに、値段が上がったり下がったりする訳だ。その差額を狙って、米切手が売買されていたという(取引には江戸中期頃からは先物取引もあるが、ここでは割愛)。
 それを今参会者の誰かが100両払ってその分の米切手を落札したとしよう(注)。
(注)ちなみに、1697年(元禄10年)時点での「江戸時代の米1俵は、米4斗(と)入りで、重さにして約60キログラムだから、100俵だと約6000キログラムとなり、価格は42両×12万円で計504万円である」(山本博文「「忠臣蔵」の決算簿」新潮新書、2012)とされている。一方、4斗俵に詰めた場合の米1俵の重さは約60キログラム、また米1石は約150キログラムに見立てられている。これらを合わせることで米100石のおよその値段の目安は105両となろう。

 すると、当該分の米俵は岡山藩の蔵屋敷に置いたまま、岡山藩側で振り出したその100石分の証券を受け取るのである。その彼もまた商売なので、100両で買った米切手がこの会所(市場)において120両に値上がりした時に売ることができれば、そのままだと20ドルの儲けとなる話だ。一方、その間の現物米の方は当該米切手の一部分を引き替える必要も起こりうる。例えば、当該蔵屋敷に行き、100石分の米切手から10石分を引き替えたとしても、実際に動く米は10石分しかなく、残りの90石分はそのまま蔵に留まる訳なのだろう。いうなれば、この取引を「10石の現物米で100石の商売ができる」(笠谷和比古(かさやかずひこ)「いま生きる武士道」NHKラジオテキスト、2015年10~12月)ことにもなっていくのであろう。

 そんな訳で、両替屋たちは、藩の名義で年貢米や国産品などを売った代金を収納して国元や江戸屋敷へ送る役割などのほぼ一切を担う。実に広範な仕事を請け負うことで、彼らは、藩財政運営上の中心的な役割を担っていた。
 そうした商人の中には、地元豪商もあるにはあったものの、それよりも手広く商売している江戸や大坂の豪商が含まれていて、その場合、彼らは関係する藩の財政を実質的に支え、切り盛りする役割を果たすまでになっていた。そして興味深いことに、岡山藩の場合は、江戸時代のかなり早い時期から、鴻池(こうのいけ、江戸と大坂の両替屋、札差(ふださし)からなるでもある)が、その元締めとなっていたという。
 念のため、ついでに大元となる両替屋の商売についても、簡単に紹介しておこう。江戸時代の金融を媒介していたのは基本的には幕府が鋳造し、市中に流通させている通貨であった。一つには金貨、二つには銀貨、そして三つにはそれら以下の価値の「銭」の類いに他ならない。金は、両、分(ぶ)、朱(しゅ)の四進法に基づく計数貨幣だ。
 次いでの銀は、丁銀(ちようぎん)、豆板(まめいた)を主とする計量貨幣としてある。しかして、その使われ方が面白く、上方では銀遣いが勝っていたものだから、「はやくから両替屋の発達をうながした」(岡本良一編「江戸時代図誌」第3巻、「大坂」筑摩書房、1976)のだ。
 そこには、おのずと序列というものがあったらしい。いわく、「大坂の両替屋には本両替・南両替・銭両替の三つがあったが、大資金を有する本両替にもっとも信用があり、中でも鴻池善右衛門・天王寺屋五兵衛らからなる十人両替が大坂の金融界に君臨していた」(同)と伝わる。
 それでは、岡山藩の場合、何がどのようにしてこの地に運ばれ、そして売りさばかれていたのであろうか。これの研究に心血を注いだであろう、黒正巌(くろまさいわお)は、まずは運ばれた品物とこれを運搬する海運につき、こういざなう。
 「岡山藩が大阪へ移出した主なる貨物米穀、毛綿、櫨(はぜのき)、焼物、石材、木材等にしてその数量は年々甚大であった。これらのうち櫨
には雄雌異株があって、雌株にはロウを取る灰白色の集団小果が実るとのこと。然るに陸上交通機関の発達なお充分でなかった当時に於いては、之等諸貨物は何れも船舶に由て運送せられ、岡山藩内の船舶は毎年増加し、海運業は岡山藩最大産業の一となった。」(黒正巌「岡山藩と大阪との海運」「京都帝国大学経済論叢」)
 それでは、藩は、これらの運送をどのようにしていたのだろうか。前掲書には、岡山藩が江戸へ米穀を送る時は、あるいは藩内の民間の船と、あるいは鴻池船と契約して行っていた。ところが、大坂への「登り米」は数量が極めて多いものだから、藩内の民間の船に委ねていたという。しかも、この場合は自由契約ではなく、強制を伴う契約であったという。
 「即ち岡山町、金岡、西大寺、片上、北浦、小串及び郡の七個町村の舟持は年々の登り米を村村の舟数に案分して運送するの義務を有すると共に、その運送独占を有するを常とし、特別の事情なき限り他村の船舶が登り米を運送することはなかった。」(同)
 こうなると、該当の村村は利益の出る時はよいのかもしれないが、逆に運送上での品物の欠損などが発生した場合には、その分は弁償しなければならぬこともあったのではないか。そのような場合の保険のような仕掛けもなかったようなので、舟持の中には破産する者も出るようなシステムを、藩として敷いていたことになろう。

(続く)

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新◻️296『岡山の今昔』岡山人(17世紀、池田忠雄、池田光政)

2022-01-14 09:39:34 | Weblog
296『岡山の今昔』岡山人(17世紀、池田忠雄、池田光政)

 池田忠雄(いけだただかつ、1602~1632)は、江戸時代初期の岡山藩主だ。後述する池田光政の尊敬する叔父でもある。播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県)の姫路藩主であった池田輝政(いけだてるまさ)の3男にして、母は第3代城主・池田忠継と同じく徳川家康の娘・督姫(とくひめ)というから、徳川氏と親戚筋だ。
 1610年(慶長15年)には、家康の外孫として、わずか9歳で淡路国6万3000石をあたえられて洲本(すもと)藩主に座る。とはいうものの、幼少のため姫路城にとどまり、かわって重臣が政務にあたった。
 その5年後の1615年(元和元年)には、兄・忠継の死により岡山城主となる。このときの遺領38万石のうち播磨(はりま)の宍粟(しそう)・赤穂(あこう)・佐用(さよ)の3郡を合わせ10万石を弟輝澄(てるずみ)・政綱・輝興(てるおき)に分与。自分は、備前国28万石に備中国南部の3万5200石を加えた31万5200石を領する。以後、岡山藩の石高は幕末まで変わらなかった。
 その短めの治世においては、岡山城の拡張整備に着手したので有名だ。本丸中の段を拡張して政庁や城門、多くの隅櫓(すみやぐら)を築造した。また、二の丸の大手門を枡形構造に改修した。

 そんな忠雄だが、自らと懇ろの関係にあった家臣が殺されたことに端を発する、いわゆる伊賀・鍵屋の辻の決闘(もしくは河合又五郎事件)をめぐり、幕府の旗本と対立したことがある。
 この場合、なぜ幕府直参の旗本が関わっていたのかというと、当時は武家屋敷駆込慣行がまかり通っていた。それというのは、岡山藩士の河合又五郎と渡辺源太夫(わたなべげんだゆう)の二人の間で遺恨があり、渡辺を切り殺した河合は、岡山藩江戸屋敷の隣にある安藤という旗本屋敷に逃げ込んだところ、安藤家は河合を匿(かくま)う。これに怒ったのか藩主の忠雄である。「河合は不届き者だから引き渡してもらいたい」と要求するのだが、安藤の方は「駆け込みを助けるのは武士の道理」として、これを突っぱねる。
 この決裂により、その前からくすぶっていた総大名と総旗本との面子(めんつ)をかけた対立が燃え上がり、幕府としても介入せざるを得なくなる。「安藤家に対して、護衛の侍をつけて河合よ身柄を引き渡しはしなくていいから、とにかく屋敷から追い出せと命じ」(笠谷和比古(かさやかずひこ)「いま生きる武士道」NHKラジオテキスト、2015年10~12月)たのだと。
 こうなると、事はもはや果たし合いで決着するしかないことになっていく。護衛に守られ長崎へ向かう河合を、これまた渡辺数馬の姉婿で姫路藩本多家家臣の荒木又右衛門に助太刀を頼んだりして、伊賀の鍵屋の辻で待ち構え、見事に仇討ちを果たした。このとき忠雄はすでに亡くなっていたのだが、その墓前に報告をしたことになっている。

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 池田光政1609~1682]は、備前岡山藩主。姫路藩2代藩主・池田利隆と2代将軍・秀忠の養女である鶴姫の長男という。池田輝政は祖父にあたる。7歳の時に父・利隆が死去し姫路42万石の藩主となったが、幼少を理由に因幡鳥取32万石に転封、その後の1672年、従弟の池田光仲との国替えにより備前岡山藩31万5千石の藩主となる。
 それからの光政は、藩政に積極的に取り組む。主には、新田開発・殖産興業に努める。儒教を重んじること、
 前者においては、新田開発や治水、産業の振興に尽力する。これには、陽明学者にして実直な熊沢蕃山(くまざわばんざん)を招いたのが大きかったろう。土豪や町方が請け負う形での干拓もあるが、経営がうまくいかない。では、藩営でやろうということで、津田永忠(重二郎)を任じて、その事業に当たらせる。仔細は別に譲るが、最初の藩営新田としての倉田新田(上道郡、三百町歩、五千石、延宝7年)、沖新田(上道郡、千五百四十町歩、二万八千三十九石)を開発する。これらには、光正肝いりの「社倉米」の運用金が役にたったらしい。
 後者では、教育の充実に邁進する。全国初となる藩校・花畠教場や日本最古の庶民の学校・閑谷(しずたに)学校を開設することで、日本全国に名前がとどろくほど。その気持ちたるや、二代藩主への、こんな手紙が伝わる。
 「学問について貴殿にとやかく進言するような者は、およそ学問というものを役に立たずに費用がかかるだけのものと考えているやからである。物事の効果を早急に求めようとするからには、次のように申すのももっともであろう。先年も約束したことでもあるから、がいふの者があれこれいっても貴殿の心は動かぬものと思っていたのに、今度の書面に接してまことに驚きいった。
 ともかく、万人にとって必要欠くべからざる学問をやれることは、貴殿のためにもたいへん悪いことであり、それ以上にわたしは迷惑千万なことである。わたしは不徳ではあるが、わたしが開設した学校を、貴殿の代になって早々に廃絶することは悲しいことである。
 財政が健全になったら再開するというが、貴殿が学問嫌いであることは世間承知のことであるから、とても再開するようなことは望めない。その上、財政の立ち直りには長年月を要するであろうから、いままでの学校経費二千石を五百石に削減したらどうか。その五百石も支出できないというなら、わたしの隠居料の中から五百石を支弁することにする。学校が嫌いな者の目には、悪いことはすべて学問が原因であるとうつるものである。まったくなげかわしいことである。」(谷口澄夫「岡山藩」での著者訳から引用)

 さらに、質素倹約を旨とする「備前風」を奨励したのだという。そんな評価があるものの、人民大衆からの視点はあらかた見当たらない。なぜなのであろうか。やはり、地方における専制君主の枠内での、他と比べての「善政」なのであり、英明な彼はそのことに気づいていたのではなかったのか。
 総じて、徳川の世の中においても、数本の中に入る程の、後世への善き「みやげ」を残したのは、偉大だ。


(続く)

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