1『岡山の今昔』先史年代の吉備(地殻の形成)
今では周知のことながら、元のこの辺りに人はいなかった。後の日本になった地殻も、ユーラシア大陸の一部であって、いまのような形では存在していなかった時代だ。そもそも、その地殻中の「西南日本外帯」では、フィリピン海プレートの斜め(南東方向)からの沈み込みがあったという。
そのことで、海洋からこのプレートにのることで移動してきた堆積物が、ユーラシア大陸側に押し付けられ、「付加体」なるものができていく。現在の西南の基礎となる岩石は、主にこのことによってできたのだという(山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史」講談社、2017)
その後も沖合で海洋プレートの沈み込みが続くうち、今日の日本列島を構成する地殻の、あれやこれやの総体が大陸から分離し、やがて今日私たちが知るような形になっていったのではないかと考えられている。
そのあらましについては、様々に言われているものの、よくはわからない。かたや、そもそもの話として、日本列島の土台はユーラシア大陸の東端の一部をなしていた。それが、今から約2億年前になると、割れ目ができていた。そこへ、約6000万年前、巨大噴火でアメリカ大陸とユーラシア大陸が分裂し、中央海嶺(かいれい)が拡大したことで大西洋ができたと推測されている。(「大西洋、2億年の大パロラマ、体感!グレートネイチャーSP」NHK2021年9月17日放送)
あるいは、次のようにも言われる。
「プレートテクニクス理論を組み合わせると、日本海が拡大する前には、東北日本と西南日本はそれぞれロシア沿海州と韓半島の沖合に位置していたとの結論に達した。」(乙藤洋一郎「古地磁気が語る日本列島・日本海の形成」、「地質技術」第7号(2017))
やがて、次のような大変化が起こる。一説には、そのことを次のように推測している。
「この古位置から、日本海が拡大の最盛期を迎えた15Maには、東北日本と西南日本の二つの扉は、観音開きのように開いた。」(同)
なお、ここに「Ma」というのは、地球の歴史に関わる「Mega annum(ラテン語)」の略で、「今から1500万年前」を意味している。それと、地質学でいう地殻とは、地球の表層において、主にマグマが冷え固まってできたもので、地球全体をゆで卵と見立てると、「殻(から)」に相当しよう。あわせて、地殻とその下のマントル最上部の固い部分を合わせた厚さ100キロメートルほどの岩盤のことをプレート(海洋プレートと大陸プレートに分かれる)と呼んでいる。ついでながら、そこからさらに深部に向っての地球の組成は、次のように説明されている。
「ゆで卵の白身に相当する「マントル」は、主に苦度かんらん石というオリーブ色の鉱物やそれがより高密度な構造へと変化した高圧鉱物(地球深部のような高い圧力と温度条件で安定な、高い密度と強度を有する鉱物)から構成されています。マントルは、その内部を伝わる地震波の速度が急に変化する深さを境にして「上部マントル(深さ410キロメートルまで)」、「マントル遷移層(深さ410~660キロメートル)、「下部マントル(660キロメートル以深)」の3つの領域に分けられます。
今では周知のことながら、元のこの辺りに人はいなかった。後の日本になった地殻も、ユーラシア大陸の一部であって、いまのような形では存在していなかった時代だ。そもそも、その地殻中の「西南日本外帯」では、フィリピン海プレートの斜め(南東方向)からの沈み込みがあったという。
そのことで、海洋からこのプレートにのることで移動してきた堆積物が、ユーラシア大陸側に押し付けられ、「付加体」なるものができていく。現在の西南の基礎となる岩石は、主にこのことによってできたのだという(山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史」講談社、2017)
その後も沖合で海洋プレートの沈み込みが続くうち、今日の日本列島を構成する地殻の、あれやこれやの総体が大陸から分離し、やがて今日私たちが知るような形になっていったのではないかと考えられている。
そのあらましについては、様々に言われているものの、よくはわからない。かたや、そもそもの話として、日本列島の土台はユーラシア大陸の東端の一部をなしていた。それが、今から約2億年前になると、割れ目ができていた。そこへ、約6000万年前、巨大噴火でアメリカ大陸とユーラシア大陸が分裂し、中央海嶺(かいれい)が拡大したことで大西洋ができたと推測されている。(「大西洋、2億年の大パロラマ、体感!グレートネイチャーSP」NHK2021年9月17日放送)
あるいは、次のようにも言われる。
「プレートテクニクス理論を組み合わせると、日本海が拡大する前には、東北日本と西南日本はそれぞれロシア沿海州と韓半島の沖合に位置していたとの結論に達した。」(乙藤洋一郎「古地磁気が語る日本列島・日本海の形成」、「地質技術」第7号(2017))
やがて、次のような大変化が起こる。一説には、そのことを次のように推測している。
「この古位置から、日本海が拡大の最盛期を迎えた15Maには、東北日本と西南日本の二つの扉は、観音開きのように開いた。」(同)
なお、ここに「Ma」というのは、地球の歴史に関わる「Mega annum(ラテン語)」の略で、「今から1500万年前」を意味している。それと、地質学でいう地殻とは、地球の表層において、主にマグマが冷え固まってできたもので、地球全体をゆで卵と見立てると、「殻(から)」に相当しよう。あわせて、地殻とその下のマントル最上部の固い部分を合わせた厚さ100キロメートルほどの岩盤のことをプレート(海洋プレートと大陸プレートに分かれる)と呼んでいる。ついでながら、そこからさらに深部に向っての地球の組成は、次のように説明されている。
「ゆで卵の白身に相当する「マントル」は、主に苦度かんらん石というオリーブ色の鉱物やそれがより高密度な構造へと変化した高圧鉱物(地球深部のような高い圧力と温度条件で安定な、高い密度と強度を有する鉱物)から構成されています。マントルは、その内部を伝わる地震波の速度が急に変化する深さを境にして「上部マントル(深さ410キロメートルまで)」、「マントル遷移層(深さ410~660キロメートル)、「下部マントル(660キロメートル以深)」の3つの領域に分けられます。
一方、ゆで卵の黄身に相当するのが、深さ2900キロメートルから中心(約6400キロメートル)までを占めている「核」です。核はほぼ鉄とニッケルよりなり、高温のため融けて液体状態となっている。「外核」と、きわめて高い圧力のため、高温でも固体状態の「内核」に分けられます。地球が誕生した当初は、核はすべて液体の状態でしたが、長い年月をかけて徐々に地球が冷えてきた結果、中心部で固化が進んで内核ができたと考えられます。」(大藤弘明「地球深部を鉱物から探る」、国立科学博物館発行の雑誌「milsil(ミルシル)」5、2021年5月号より、一部省略の上引用)
そこで西南日本の南北の地殻断面を一言でいうならば、地質構造を南北に大きく二分する中央構造線の存在だろう。かかる状況においては、四国のやや北部を東西に走る地層境界断層としての中央構造線(断層)なるものが、総体的には、これまでの日本列島の歴史の中でできた地層の「古傷」に属するというのだ。また、それとは区別しての、中央構造線活断層系(四国〜紀伊半島西部)とは、その一部を使って現在も影に日向に活動している断層のことだという。
そこでは、南側の「西南日本外帯」(四国側)の山々の方が、「西南日本内帯」(大陸側)の山々よりも高い、これは九州についてもいえることなのだが、九州方面の地殻自体は中央構造線云々の埒外なのだという。
そこで現在にタイムスリッブして、中国山地の岡山県側を眺めると、東の方からごく大まかに、後山、船木山、その後ろに駒の尾山、そして西粟倉村などを挟んで那岐山と来る。さらに、滝山、広戸仙から奥津温泉峡を渡った後には津黒山へといたる。それからは、名高い「蒜山三座」、皆が山と来て、その向こうにつながるのは中国地方最高峰の大山(鳥取県だ。さらに進むと、毛無山、花見山、三国山へと、おおよそ1200メートル前後の山々が連なる(「岡山県の山」山と渓谷社、2010など)。
再び日本列島ができてからに遡ると、それからは、中国地方の日本海側では、「この時期の火山活動は中生代のそれとは異なり、主として陥没・沈降地域の海底での噴火によるもので、その後の変質で緑色を帯びているのがある」(植田芳郎「中国地方の地質と生い立ち」)とのこと。続いては、こんな説明がなされている。
「一方、この時代の中国地方の他の地域では、山陰のグリーンタフ地域と異なり、火山活動を伴わない比較的薄い地層が花こう岩や変成岩でできて凹地に堆積しました。これは広島県の山間部の三次盆地(みよしぼんち)や、岡山県では津山盆地に、また瀬戸内海の沿岸部に転々と小分布で残っています。」(同)
そこでは、南側の「西南日本外帯」(四国側)の山々の方が、「西南日本内帯」(大陸側)の山々よりも高い、これは九州についてもいえることなのだが、九州方面の地殻自体は中央構造線云々の埒外なのだという。
そこで現在にタイムスリッブして、中国山地の岡山県側を眺めると、東の方からごく大まかに、後山、船木山、その後ろに駒の尾山、そして西粟倉村などを挟んで那岐山と来る。さらに、滝山、広戸仙から奥津温泉峡を渡った後には津黒山へといたる。それからは、名高い「蒜山三座」、皆が山と来て、その向こうにつながるのは中国地方最高峰の大山(鳥取県だ。さらに進むと、毛無山、花見山、三国山へと、おおよそ1200メートル前後の山々が連なる(「岡山県の山」山と渓谷社、2010など)。
再び日本列島ができてからに遡ると、それからは、中国地方の日本海側では、「この時期の火山活動は中生代のそれとは異なり、主として陥没・沈降地域の海底での噴火によるもので、その後の変質で緑色を帯びているのがある」(植田芳郎「中国地方の地質と生い立ち」)とのこと。続いては、こんな説明がなされている。
「一方、この時代の中国地方の他の地域では、山陰のグリーンタフ地域と異なり、火山活動を伴わない比較的薄い地層が花こう岩や変成岩でできて凹地に堆積しました。これは広島県の山間部の三次盆地(みよしぼんち)や、岡山県では津山盆地に、また瀬戸内海の沿岸部に転々と小分布で残っています。」(同)
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