23『岡山の今昔』倭の時代の吉備(6世紀、大和朝廷の支配下へ)

2022-01-16 21:44:19 | Weblog
23『岡山の今昔』倭の時代の吉備(6世紀、大和朝廷の支配下へ)

 では、吉備国の政治的な位置関係はどうなっていたのであろうか。そして、どのように変化していったのであろうか。吉備の国の勢力が及んでいたのは、現在の岡山県全域と広島県東部(備後)を含んだ肥沃な地帯である。そういえば、吉備の国の繁栄ぶりを、濠を持つ広大な前方後円墳が遺されていて、その威容は大和の古墳群と似通っている。他の天皇陵と比べても見劣りしないだけの規模があるのが少なくとも2つある。
 他の地域と変わったところでは、畿内の箸墓古墳との関係があったのか、ここからは「弥生時代後期に吉備地方で発生し、葬送儀礼に使われた特殊器台と特殊壺が出土した」(小川町「小川町の歴史・通史、上巻」)と言われる。その他にも、大規模な陵墓がかなり高梁川下流部などに集中している。今までの発掘で、これらの古墳の被葬者の大半は判明していないようである。これまでの発掘でどのくらいの事実がわかっているのかも判然としない。それとも、発掘の時点で既に宝物もろとも盗掘されていたのかもしれない。吉備の中山の西麓(現在の総社市)には吉備津神社が建っている。そこでは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)などを祀る。この人物の名は、「日本書紀」の「崇神天皇」にて、次のような下りで登場している。

 「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」(『日本書紀』中の「巻第五御間城入彥五十瓊殖天皇崇神天皇」)

 ここでいわれる崇神大王が実在の人物であったならば3世紀前半とも目される。ついては、当時の倭(わ、やまと)は「魏志倭人伝」による邪馬台国連合の時代であり、実在の可能性が薄いとみざるをえない。また、この地は米などの穀物のほか、たたら鉄や塩を作っていたことがわかっている。中でも鉄は、上代から美作や備中の山岳の麓・川沿い地帯を中心に手広くやられていたことが伝わる(注)。

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(注)
 実際には、川の流れを使って土砂の中から砂鉄を採取し、これを「たたら」と呼ばれる溶鉱炉に入れて精錬する。ここに砂鉄というのは、主に山砂鉄を用いることになっていた。それにはまず、砂鉄の含有量が多そうな場所を探す。山間には、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出している場所がある。もちろん、そこから手づかみで砂鉄を取り出すのではない。そこで、水洗いのための水利に恵まれた場所を選ぶ。そして鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設ける。
 それから、できれば川の流れに沿って上流に貯水池を設け、その水が山際に沿って走る水路をつくる。山を労働者がツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って下り、下手の選鉱場へ運ばれるという案配だ。この水路を「走り」と言う。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれていて、そこに溜まった鉄分を採取することになっていた。この一連の作業の流れを「鉄穴流し」と呼んでいた。
 その後半の工程としての精錬だが、まずは粘土で固く築いた箱型炉(たたら炉)の中に、原料の砂鉄と補助剤の木炭を交互に入れる。それから、木炭に火を点け、たたらふいご(天秤ふいご)を使って火力を上げる。具体的には、戸板状の踏み板を片方に3人ずつ、両方に分かれ、まるでシーソーのように交互に踏み込むことで送風する仕組みだ。昔からの力仕事の一つとされ、勢い余って、空足(からあし)を踏むことを「たたらを踏む」との例えがある。
 時間が経つとともに、砂鉄が溶けて還元(木炭を燃やすことで砂鉄に含まれる酸素が飛ぶ、奪われること)されていく。この作業は、通常約60時間も続けることになっていた。それが済んだら、今度は炉を破砕し、炉の底にたまった灼熱と化した「けら」と呼ばれるものが出来上がっている、それを取り出す。これを「けら出し」と呼ぶ。ところが、こうした一連の作業によって砂鉄の採取の現場には大量の土砂があふれ、炭を作るための山林伐採で付近の山は禿げ山になってしまう。地盤も弱くなって、総じて環境に重大な影響を及ぼす。とはいえ、それだけの代償に鉄製の武器や、備中鍬などの農具を作ることができ、黍の勢力拡大に大いに役立ったことであろう。

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 古墳についてもう少しいうならば、今は松風そよぐ吉備の古代路は埋もれた形だが、古墳時代の吉備地方には、単一の権力基盤ではなかったのかもしれない。畿内大和の地にある、古墳時代前期と見られる前方後円墳と吉備地方にある古墳群との関わりでいうと、およそ3世紀後半より4世紀初頭に造営されたと見られる纏向(まきむく)型の前方後円墳の分布ということでは、吉備国には、この類型に属する4つの古墳があるという。西の方から数えると、まず楯築だが、これは纏向型の原型とされ、2世紀末の造営と見られる。宮山は3世紀中ごろで、規模は4分の1、庄内式に分類される。中山は1.2倍あり、矢藤治山は3分の1の規模となっている。

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 さらに2~3世紀が経過してゆくと、それなりの統治の体制が大和盆地に勃興してきて、その力が吉備にも様々な影響を与えるように成り代わる。例えば、6世紀の事柄について、次のような話が記されている。

 「敏達三年(574)冬十月戊子朔丙申遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。戊戌詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。」
 ここに「遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津」、書き下しては、「蘇我馬子大臣を吉備国に遣して白猪屯倉(しらいのみやけ)と田部(たべ)を増益す。即ち田部の名籍を以て白猪史胆津に授く」とあるのは、なかなかに興味深く感じられる。
 その内容としては、朝廷は蘇我馬子と白猪史(しらいのふひと)の胆津(おういつ)を吉備の国(後の〈吉備五郡〉)の白猪屯倉に派遣した。これを取り仕切った責任者は蘇我氏の長たる蘇我馬子(そがのうまこ)と知れているものの、そこにある田部(その土地を耕し、朝廷に税を上納する者をいう)を「名籍」(丁籍ともいい、土地と耕す人などを記した木簡製の帳簿なのであろうか)を使って増益するのを目的にしていたという。

 いうなれば、律令制以前に、部民制や国造制などとともに、当時の倭(わ、ヤマト)王権による地域支配制度としてあったもの。さらにいえば、白猪田部丁籍(しらいのたべのよほろのふみた)が指定されて田戸とされた。そのために現地に派遣された胆津は、この功により白猪史の姓(かばね)を与えられる、そして田令(たつかい)となったというくだりとなっている。なお、敏達朝においては、白猪屯倉の比定地としては諸説があり、大庭(おおば)郡や児島などもそのような話に連なっている。

(続く)

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