新164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

2022-01-23 10:37:18 | Weblog
164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。まずは、往年の鉄道旅の熟達者の旅便りから、その一節を紹介させていただこう。
 「備中高梁着15時18分。駅の右手の山腹には形のいい古寺がずらりと並んでいる。
 次に乗る予定の新見行は16時36分で、時間があるから松山城に上ってくることにする。この山城は全国でもっとも高いところにあるそうで、駅の北方の突兀(とつこつ)とした山顛(さんてん)に石垣や櫓(やぐら)が見えている。あんな高いところに城を築いてどういう戦術的価値があるのかわからないが、とにかくタクシーで中腹まで行き、急な階段を上る。無骨な砕石を積んだ大味な石段で、一段ごとの幅が広く段差も高い。駅やビルの階段の2倍ぐらいある。どこの城趾(じょうし)でもそうだが、ここのはとくに段差がある。駆け上がったり下(お)りたりするときは都合がよいのかもしれないが、なかなかきつい。呼吸がはずんでときどき立ち止る。汽車の中に座ってばかりいて体がナマったのかもしれない。麓に武家屋敷が並んでいたから昔の武士はこんな急な石段を毎日上って登城していたのだろうか。満員の電車も大変だが、この石段を通勤するのも相当なことだ。
 二の丸の石垣の端に立って下を見下ろす。下から見上げるより傾斜か急で、石を投げれば街に当りそうな感じがする。脚下に高梁川が空を映して白く光り、それに沿って城下町が細長くつながっている。備中高梁の駅と線路が鉄道模型のように見え、ちょうど下(くだ)りの特急「やくも7号」が条虫のように進入してきた。」(宮脇俊三「最長片道切符の旅」新潮文庫、1979)
 それから30数年経過しての筆者の旅から、2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
 1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。
 たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
 この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
 なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。

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 次に、この城下の町割を簡単に紹介してみよう。そうなると、松山城主の日常居館、また領内を治める政庁としての御根小屋跡から始まるのだろうか。その廻りを武家屋敷が取り巻くというか、今でも高下川沿いと石火矢町に武家屋敷の土塀が続く。初めての訪問者に便利なのは、高梁高校の南側に位置する「石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村」(現在の石火矢町)を出発したらよいのだろうか。なにしろ、往時には、格式ある門構えの武家屋敷が250メートルにわたり武家屋敷が連なっていたという。江戸時代の道幅そのままにしてあるのは、美観を保つためか。その古風さの中、「旧折井家」と「旧埴原家」の2つの武家屋敷が保存公開されている。旧折井家は、180年前の天保年間の建築で、中上級武士が住んだと伝わる。旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて建てられた上級武士の住まい、それも藩主勝政公の生母の実家でもあったため、奥向きもある。
 それでは、一般の人たちはどんな暮らしぶりであったのだろうかというと、それを彷彿とさせるのは、さしあたり伝統的な商家や町家なのだろう。町の西側を南北に流れる高梁川の清流を、意識しながら歩いてみると、本町、下町、鍛冶町などをたどり歩くうちに、なにかしら感じられていくもののように見受けられる。旅の案内ちらしなどを拝見するかぎりでは、町の通りは遠目遮断になっていて、辻々で少しずらせたり、T字型や曲折させて城下のようすを見通せないようにしてあるのが特徴だということで、やはり武家の都合を優先にした町なのであろう。
 本町にいたると、こちらは江戸時代から明治初期にかけて建築された商家だという。である。池上家(商家資料館)は、享保年間のある時、(1716~1736)にこの地で小間物屋の「立花屋」を始めたのだという。代々小間物屋を営みながら、高梁川水路の船主(水運業)、両替商など兼ねていたというから、相当の財をなしたものなのだろう。
 もう少し南へ向かって進んだところには、観光駐車場がある。近くを、高梁川の支流で、城の外堀扱いとされていた紺屋川(こうやがわ)が流れる。そこから南へ少し下ると、下町の商店街筋をたどり歩く。この辺りは美観地区であり、かつて、商家が立ち並んでいたという。現在でも、かなりの商家の建物が残っている。いずれも重厚な商家のつくりであり、紺屋町筋から国道180号線に面して土蔵が連なる。高梁川を利用した高瀬船での物資集散地だったから、こちらが便利だったに違いあるまい。 
 さらに南下してJR備中高梁駅を東側に降りると、そのさらに東に行くうちには、頼久寺や、定林寺など名うての寺院が次から次へと姿を現す。その数20余りというから、かなり多くあるのではないか。こちらの諸寺の成り立ちについては、逸話というか、「城下を守る形で配された城郭」(山本博文監修「古地図から読み取解く城下町の不思議と謎」実業の出版社)とあって、武家諸法度(1615年、元和元年)により新築・改築を厳しく制限されていた幕藩体制下での、防衛のための苦肉の策といえるだろうか。その実、堅固な石垣が寺の入り口に見えてくるのは、いかにも猛々しい感じがしてならない。

(続く)

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