新238『岡山の今昔』倉敷市(その近世からの歩み)
倉敷という地名については、倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に始まるという。中世において、この地は、貴族や寺社などに関係する各々の支配地(その多くは荘園)から、年貢米や貢納物を京都などへ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地(くらしきち)」に由来しているとする説が有力とされる。ほかにも、この地は「蔵屋敷が立ち並んだので、「蔵屋敷「地が転訛して「倉敷」地となった」ともいわれる。
それからかなりの時が経過しての現在は、高梁(たかはし)川下流域の岡山平野西部と、児島(こじま)半島西部からなる。面積は355.63平方キロメートル。21世紀の20年代の今日、その人口は50万人をうかがう程になっている。
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まずは、大まかな政治向きの流れから、述べよう。そもそもは、倉敷川を中心とする一帯が最初に念頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。このあたりでは、早くから干拓による田地の開発がなされてきた、
そうした中、かかる備中領有については、江戸幕府開府前の1600年(慶長5年)より幕府直轄領(天領)として、備中代官の小堀氏(小堀正次・小堀政一親子)が統治していた。そのしばらく後の1617年(元和3年)には、因幡国鳥取藩6万石より池田長幸が6万5000石で入封してくる。
ところが、1641年(寛永18年)になると、備中松山藩第2代藩主の池田長常が無嗣子で死去したため同氏は改易となり、備中国内の倉敷村などに限っては1642年(寛永19年)から再び幕府直轄領に組み入れられ、同旧領の大方は成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。
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なお、江戸時代の初期の下津井においてほ、それなりの政治的な押さえが必要とされていた。 すなわち、1602年(慶長7年)に小早川秀秋が早世すると、無嗣断絶により小早川家は改易となる。その後には、池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)が岡山城主となり、播磨赤穂城代池田長政が下津井3万2千石を拝領して入部した。
それからは、池田長政が城の改築に取り掛かり、現在見られる城の形態を完成させる。彼は、江戸城や駿府城の普請に活躍する。1607年(慶長12年)に下津井城の普請が完成したものの、長政は駿府城の普請現場からの帰途、病に斃れる。
1609年(慶長14年)、今度は、池田輝政の甥、池田由之(いけだよしゆき)が下津井城主となる。1613年(慶長18年)に輝政が病没すると、由之は明石城に移る。
それからほどなくの1615年(元和元年)には、幕府により一国一城令が出される。これによって下津井城は廃される話なのだが、1632年(寛永9年)には、岡山藩と鳥取藩との国替えによって、池田光政が岡山に入る幕府命令が出される。すると、その家老にして米子城代を務めていた池田由之の子由成が、下津井城に入る。
1639年(寛永16年)には、池田由成は、下津井城を出て、天城(現在の倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて下津井城を出る。
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それからかなり経過しての明治維新では、1867年(明治元年)5月に、それまで窪屋郡倉敷村であったものが倉敷県となるも、1871年(明治4年)11月には、他の9県とともに深津県となる。その翌年6月には、深津県は小田県に編成替えされる。
1875年(明治8年)には、旧岡山藩の流れをくむ岡山県に吸収される。さらに1928年(昭和3年)には、市制が施行される。1944年(昭和19年)になると、中洲(なかす)町を編入する。
戦後の1950年(昭和25年)粒江(つぶえ)村、1951年(昭和26年)には、菅生(すごう)、中庄(なかしょう)、帯江(おびえ)の3村を編入する。1953年、西阿知、連島(つらしま)、福田の3町を編入する。1954年(昭和28年)には、藤戸町を編入する。
1964年(昭和39年)には、新産業都市に指定される。1967年(昭和42年)2月1日には、倉敷・児島・玉島の旧3市が合併して、新たな倉敷市となる。
その後、1971年(昭和46年)には旧庄村、その翌年には旧茶屋町と合わさる。2002年(平成14年)には、中核市の指定を受ける。2005年(平成17年)には旧船穂町・旧真備町と合併を果たす。また、3市合併時に約31万人であった市の人口は、2019年現在では約48万5千人となっているとのこと。
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さて、一頃までの倉敷のイメージといえば、備中松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地ともなっていた。当時の倉敷川には、潮の干満を利用して多くの船が航行しており、川沿いには、商売の繁盛と相まって塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていく。
それが21世紀の20代に入った現在では、この地域は、著しい発展を遂げており、かつまた変化してやまない。その区域も、(1)倉敷、(2)児島・下津井エリア、(3)玉島エリア、(4)水島エリア、(5)船穂・真備エリアの4つのエリアからなる、瀬戸内海に沿い有数の広域都市となっている。
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2016年3月、倉敷市は、新しい「総合事業「介護予防・日常生活支援総合事業」へと移行している」(「地域(「つなぐ」生活支援コーディネーター」、「介護保険」No.257、2017年7月号)という。
その準備段階として進めている一つが、「地域づくりを推進するための協議の場」(同)であり、2015年10月には、「「高齢者活躍推進地域づくりネットワーク会議」を設置した」(同)のだというから、それまでの市のやり方では地域包括システムを構築するという大業をなし得ないと判断したのであろう。
次に市が着手したのが、「倉敷市社会福祉協議会への生活支援コーディネーター」であって、2016年度に1名、翌2017年度に2名の計3名が配置されたという。当面取り組んでいる仕事内容としては、市内の通いの場の有り様を調査するとともにアンケートを実施、それらの結果を冊子にまとめる。また、社会福祉協議会主催「生活・介護支援サポーター養成講座」や「サロン交流会」、さらに「支え合いの町づくらフォーラム」を開催するなどして、地域住民の生活支援にとどままらず、皆のためにやる気のある人を育てる工夫をしているのは、偉大だ。
倉敷という地名については、倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に始まるという。中世において、この地は、貴族や寺社などに関係する各々の支配地(その多くは荘園)から、年貢米や貢納物を京都などへ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地(くらしきち)」に由来しているとする説が有力とされる。ほかにも、この地は「蔵屋敷が立ち並んだので、「蔵屋敷「地が転訛して「倉敷」地となった」ともいわれる。
それからかなりの時が経過しての現在は、高梁(たかはし)川下流域の岡山平野西部と、児島(こじま)半島西部からなる。面積は355.63平方キロメートル。21世紀の20年代の今日、その人口は50万人をうかがう程になっている。
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まずは、大まかな政治向きの流れから、述べよう。そもそもは、倉敷川を中心とする一帯が最初に念頭に浮かぶ人が多いのではないだろうか。このあたりでは、早くから干拓による田地の開発がなされてきた、
そうした中、かかる備中領有については、江戸幕府開府前の1600年(慶長5年)より幕府直轄領(天領)として、備中代官の小堀氏(小堀正次・小堀政一親子)が統治していた。そのしばらく後の1617年(元和3年)には、因幡国鳥取藩6万石より池田長幸が6万5000石で入封してくる。
ところが、1641年(寛永18年)になると、備中松山藩第2代藩主の池田長常が無嗣子で死去したため同氏は改易となり、備中国内の倉敷村などに限っては1642年(寛永19年)から再び幕府直轄領に組み入れられ、同旧領の大方は成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。
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なお、江戸時代の初期の下津井においてほ、それなりの政治的な押さえが必要とされていた。 すなわち、1602年(慶長7年)に小早川秀秋が早世すると、無嗣断絶により小早川家は改易となる。その後には、池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)が岡山城主となり、播磨赤穂城代池田長政が下津井3万2千石を拝領して入部した。
それからは、池田長政が城の改築に取り掛かり、現在見られる城の形態を完成させる。彼は、江戸城や駿府城の普請に活躍する。1607年(慶長12年)に下津井城の普請が完成したものの、長政は駿府城の普請現場からの帰途、病に斃れる。
1609年(慶長14年)、今度は、池田輝政の甥、池田由之(いけだよしゆき)が下津井城主となる。1613年(慶長18年)に輝政が病没すると、由之は明石城に移る。
それからほどなくの1615年(元和元年)には、幕府により一国一城令が出される。これによって下津井城は廃される話なのだが、1632年(寛永9年)には、岡山藩と鳥取藩との国替えによって、池田光政が岡山に入る幕府命令が出される。すると、その家老にして米子城代を務めていた池田由之の子由成が、下津井城に入る。
1639年(寛永16年)には、池田由成は、下津井城を出て、天城(現在の倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて下津井城を出る。
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それからかなり経過しての明治維新では、1867年(明治元年)5月に、それまで窪屋郡倉敷村であったものが倉敷県となるも、1871年(明治4年)11月には、他の9県とともに深津県となる。その翌年6月には、深津県は小田県に編成替えされる。
1875年(明治8年)には、旧岡山藩の流れをくむ岡山県に吸収される。さらに1928年(昭和3年)には、市制が施行される。1944年(昭和19年)になると、中洲(なかす)町を編入する。
戦後の1950年(昭和25年)粒江(つぶえ)村、1951年(昭和26年)には、菅生(すごう)、中庄(なかしょう)、帯江(おびえ)の3村を編入する。1953年、西阿知、連島(つらしま)、福田の3町を編入する。1954年(昭和28年)には、藤戸町を編入する。
1964年(昭和39年)には、新産業都市に指定される。1967年(昭和42年)2月1日には、倉敷・児島・玉島の旧3市が合併して、新たな倉敷市となる。
その後、1971年(昭和46年)には旧庄村、その翌年には旧茶屋町と合わさる。2002年(平成14年)には、中核市の指定を受ける。2005年(平成17年)には旧船穂町・旧真備町と合併を果たす。また、3市合併時に約31万人であった市の人口は、2019年現在では約48万5千人となっているとのこと。
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さて、一頃までの倉敷のイメージといえば、備中松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地ともなっていた。当時の倉敷川には、潮の干満を利用して多くの船が航行しており、川沿いには、商売の繁盛と相まって塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていく。
それが21世紀の20代に入った現在では、この地域は、著しい発展を遂げており、かつまた変化してやまない。その区域も、(1)倉敷、(2)児島・下津井エリア、(3)玉島エリア、(4)水島エリア、(5)船穂・真備エリアの4つのエリアからなる、瀬戸内海に沿い有数の広域都市となっている。
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2016年3月、倉敷市は、新しい「総合事業「介護予防・日常生活支援総合事業」へと移行している」(「地域(「つなぐ」生活支援コーディネーター」、「介護保険」No.257、2017年7月号)という。
その準備段階として進めている一つが、「地域づくりを推進するための協議の場」(同)であり、2015年10月には、「「高齢者活躍推進地域づくりネットワーク会議」を設置した」(同)のだというから、それまでの市のやり方では地域包括システムを構築するという大業をなし得ないと判断したのであろう。
次に市が着手したのが、「倉敷市社会福祉協議会への生活支援コーディネーター」であって、2016年度に1名、翌2017年度に2名の計3名が配置されたという。当面取り組んでいる仕事内容としては、市内の通いの場の有り様を調査するとともにアンケートを実施、それらの結果を冊子にまとめる。また、社会福祉協議会主催「生活・介護支援サポーター養成講座」や「サロン交流会」、さらに「支え合いの町づくらフォーラム」を開催するなどして、地域住民の生活支援にとどままらず、皆のためにやる気のある人を育てる工夫をしているのは、偉大だ。
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2016年3月、倉敷市は、新しい「総合事業「介護予防・日常生活支援総合事業」へと移行している」(「地域(「つなぐ」生活支援コーディネーター」、「介護保険」No.257、2017年7月号)という。
その準備段階として進めている一つが、「地域づくりを推進するための協議の場」(同)であり、2015年10月には、「「高齢者活躍推進地域づくりネットワーク会議」を設置した」(同)のだというから、それまでの市のやり方では地域包括システムを構築するという大業をなし得ないと判断したのであろう。
次に市が着手したのが、「倉敷市社会福祉協議会への生活支援コーディネーター」であって、2016年度に1名、翌2017年度に2名の計3名が配置されたという。当面取り組んでいる仕事内容としては、市内の通いの場の有り様を調査するとともにアンケートを実施、それらの結果を冊子にまとめる。また、社会福祉協議会主催「生活・介護支援サポーター養成講座」や「サロン交流会」、さらに「支え合いの町づくらフォーラム」を開催するなどして、地域住民の生活支援にとどままらず、皆のためにやる気のある人を育てる工夫をしているのは、偉大だ。
なお、この時点での倉敷市の介護保険制度の状況としては、次のように紹介されている。
「人口(2017年2月28日現在)48万3968人、高齢化人口12万7619人、高齢化率26.37%、要介護認定者(2017年2月28日現在)2万6112人、要介護認定率20.46%、介護保険料(基準額)(2015~2017年度)月額5850円、介護サービス利用人員(2017年1月末現在)2万1790人、居宅(介護予防)サービス1万5218人、地域密着型(介護予防)サービス3482人、施設サービス3090人、保険給付費354億5916万2799円(以下、略)
2016年3月、倉敷市は、新しい「総合事業「介護予防・日常生活支援総合事業」へと移行している」(「地域(「つなぐ」生活支援コーディネーター」、「介護保険」No.257、2017年7月号)という。
その準備段階として進めている一つが、「地域づくりを推進するための協議の場」(同)であり、2015年10月には、「「高齢者活躍推進地域づくりネットワーク会議」を設置した」(同)のだというから、それまでの市のやり方では地域包括システムを構築するという大業をなし得ないと判断したのであろう。
次に市が着手したのが、「倉敷市社会福祉協議会への生活支援コーディネーター」であって、2016年度に1名、翌2017年度に2名の計3名が配置されたという。当面取り組んでいる仕事内容としては、市内の通いの場の有り様を調査するとともにアンケートを実施、それらの結果を冊子にまとめる。また、社会福祉協議会主催「生活・介護支援サポーター養成講座」や「サロン交流会」、さらに「支え合いの町づくらフォーラム」を開催するなどして、地域住民の生活支援にとどままらず、皆のためにやる気のある人を育てる工夫をしているのは、偉大だ。
なお、この時点での倉敷市の介護保険制度の状況としては、次のように紹介されている。
「人口(2017年2月28日現在)48万3968人、高齢化人口12万7619人、高齢化率26.37%、要介護認定者(2017年2月28日現在)2万6112人、要介護認定率20.46%、介護保険料(基準額)(2015~2017年度)月額5850円、介護サービス利用人員(2017年1月末現在)2万1790人、居宅(介護予防)サービス1万5218人、地域密着型(介護予防)サービス3482人、施設サービス3090人、保険給付費354億5916万2799円(以下、略)
(続く)
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