96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)
やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、
その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主でもあった水谷勝隆(1597~1667)が、この備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。
さて、同藩は、その父、勝俊が、家康が関東に入国のさいにはすでによしみを通じており、案内の役を果たした。勝隆が跡を継いでからは、父の遺領をつぎ、常陸(現在の茨城県)、下野(現在の栃木県)のうちに3万2千石を領し、下館城にいた。大阪冬の陣では、活躍したという。
1639年(寛永16年)には、両国から離れ、備中の川上(現在の岡山県内)、播磨のみなぎ(現在の兵庫県内)の両郡のうちに、5万石を領し、備中の成羽に移される。
この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来、同藩たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、他の寺とともに、城および城下町の防衛戦の一つの役割を担っていた。
1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、その勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。
その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。
(続く)
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