◻️171の2『岡山の今昔』岡山人(18世紀、寂厳)

2019-10-22 22:15:24 | Weblog
171の2『岡山の今昔』岡山人(18世紀、寂厳)

 寂厳(じゃくげん、1702~)は、仏教の僧侶。備中足守藩士の子として生まれる。 9歳で吉備津宮(現在の吉備津神社)の社僧普賢院[ふげんいん](真言宗)の超染真浄に弟子入りする。11歳で出家する。
   19歳の時には、窪屋郡沖村(現在の倉敷市沖) の円福寺の住職となる。 26歳になると、円福寺で初めて悉曇学(しったんがく)の講義を行なう。
 ここに悉曇とは、梵語(ぼんご)、すなわち古代インドのサンスクリット語をいう。書も有名であり、良寛(りょうかん)、慈雲(じうん)とともに「桑門三筆」と称される。
  34歳で、地方畿内地方へ遊学し、1736年(36歳)にして、京都五智山蓮華寺の曇寂に入門して本格的に悉曇を学ぶ。1741年(寛保元年)には、備中連島(つらじま)の宝島寺(ほうとうじ、古義真言宗御室派)の住職となる。
 参考までに、この寺は、現行の地図の上では、 倉敷市連島(つらじま、つたじま)町にあり、高梁川との関わりで眺めると、わかりやすいのではないか。
 一説には、倉敷の町の北から流れてくる高梁川は、江戸時代初期までは、酒津(さかづ)あたりで大きく右に湾曲してから、瀬戸内海に注いでいた。
 より詳しくは、酒津北端にある八幡山の北側で東西に分かれ、それからは、それぞれ八幡山の東側と西側を流れて海に出ていた。東側の流れは、後の工事による現在の高梁川の流路に近く、西側の流れは、現在の柳井原貯水池にあたるとのこと。
 このうち西側の流れは、酒津の属していた窪屋郡(くぼやのこおり)と同郡西部にあった浅口郡との境界に程近い所にある港(津)という意味から、「境の津」と呼ばれる。それが、「さかづ」と言いならわされ、「坂津」それから「酒津」の字があてられたと考えられている。
 なお、これに関連して、倉敷の町というのは元は海の底であった。江戸初期は,今は緑の小山にみえる場所には、海に浮かぶ島島が並んでいたという。大平山(おおひらやま、161.9m)という頂上を持つ連島もその島の一つであった(他には、児島、乙島、柏島など)。宝島寺は、その連島の南側の山裾にあり,長い間すぐ近くまで瀬戸内海の波が押し寄せていたと思われる。

(続く)

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