○○354『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

2019-10-15 22:59:10 | Weblog

354『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

 日本国内では、1946年(昭和21年)2月17日に金融緊急措置令、日本銀行券預入令が発せられた。これらで民間に出回っている貨幣をすべて金融機関に預けてもらうという、一種の預金封鎖の荒療治を行うことで、3月より新円に切り替えで新しい貨幣だけが世の中に出ていくような取組みがなされたことになる。

 かかる「新円への切り換え」の意義については、敗戦で国家の信用が崩れ、ヤミ経済とハイパーインフレーションが横行していたおり、旧円での預貯金をすべて封鎖し、一月あたり一人500円に限って新円として引き出すことができる、というのであつた。そして、これにより、市中の膨大な旧通貨(旧円)の価値が廃棄され、これにより、世の中の需要の源としての購買力が一挙にして縮小するという、いわば、大衆の犠牲をもってハイパーインフレーションを終息させるという荒療治がまかりとおった訳なのだ。

 これを銀行サイドから言うと、かれらはそれまでの「貸出債権を二分し、健全貸付債権を新勘定、不良債権を旧勘定に区分と区分し、旧勘定の不良債権の大部分を凍結した庶民の預金(第二封鎖預金)と資本金で引き当てた」(箭内昇「メガバンクの誤算」中公新書)ことになる。この銀行による不良債権の集中的処理は、時の政府がGHQ司令部の命令で銀行企業への戦時補償を打ち切ることがあったため、戦時下をくぐり抜けて不良債権の山を抱えていた中での銀行の再出発となっていく。

 1946年(昭和26年)2月、物価体系の端緒としての物価改定が行われた。公定価格を引き上げて闇価格に近づける政策であった。1947年(昭和22年)1月、復興金融公庫が第一回政府出資金40億円をもって設立された。これで、政府融資を盛んに行う体制がひとまず整ったことになる。ところが、同公庫の資本金が当初の100億円から1948年(昭和23年)末には1450億円まで増資されていたものの、政府は財政難から合計で250億円しか政府出資分を払い込むことができなかった。そのために結局、資金を復興金融債権を発行することによって賄うことにせざるをえなくなっていく。1946年(昭和21年)3月、財政法が公布された。この法律には、公債発行と借り入れ金の制限が盛り込まれた。同年7月、「流通秩序要綱」に基づく「安定帯新物価体系」による補給金制が敷かれた。同年12月、臨時金利調整法法の公布・施行があり、預金金利の上限を設定、と続いていく。
 ところで、復興金融公庫の復興金融債の発行高は、1946年度(昭和21年度)が30億円、1947年度が559億円、さらに1947年度には1091億円と鰻昇りに発行額が増やされた。ところが、その合計1680億円のうち75.4%が日本銀行引き受けの形で発行された。このため、生産回復の副産物として、この面からの貨幣の過剰発行によるインフレーションの加速が現実のものとなっていく。そこで、これについては、ドッジGHQ経済顧問が、価格差補給金と復金融資という竹馬の2本足切りを日本国へ勧告したからたまらない。この勧告に政府は従わざるをえなかったから、同公庫は1952年(昭和27年)1月には解散を余儀なくされていく。ちなみに、1949年(昭和24年)3月末で測った全ての金融機関の設備投資残高と、それに占める復興金融公庫の融資比率を見ると、つぎのような高率となっていた。石炭は338億7700万円のうち334億2400万円で98.1%、鉄鋼は28億2100万円のうち20億7100万円で73.4%、肥料は71億1300万円のうち45億5500万円で64.0%、電力は205億8000万円のうち191億2500万円で92.9%、海運は155億6900万円のうち130億7900万円で84.0%、繊維110億8800万円のうち49億7500万円で44.9%の計910億4800万円のうち772億2900万円で84.5%。以上の融資総計は1273億8000万円のうち943億4100万円で74.1%となっていた(出所は、宮下武平「財閥の再建」及び御園生等「日本の独占」至誠堂、1958より)。
 もっともこれは全額ではなく、設備投資資金以外も入れると、1949年3月の復興金融公庫の資金融資打ち切り時の融資残高は1319億円にものぼっていた。実にここまでやるか、の感想を拭えない。そのからくりについて、復興金融公庫はせっせと復金債権を発行し、日本銀行はこれをどんどん買い入れる。融資された企業はどんどん投資し、生産し、それをどんどん売ってもうけほ殖やしてきた訳である。しかも見過ごすことができないのは、このころから政界と官界と財界の癒着が本格化したことにある。室伏哲郎氏の著書に、こうある。
 「この復金融資を牛耳っていたのは、政治家と高級官僚だった。復金の最下部には事務局審査部があり、その上に復金役員会がある。だが、役員会をパスした融資申し込みも、さらに大蔵省銀行局長(事件当初は福田赳夫)を議長とする復金幹事会、およびその上の大臣クラスの委員会を通過しなければならなかった。一見民主的にお膳立てされた組織だが、じつは5000万円以上の「政治融資」には蔵相を委員長とする委員会の決定が必要で、その実質的な決定権は、その下の高級官僚で固めた幹事会にあり、ここが当然ながら、暗い取引の場となったのだった。49年3月までの復金融資残高は1319億円だが、その融資総額の80%以上はこの5000万円以上の大口だったのである。」(室伏哲郎「腐職の構造」岩波新書、1981」より)
 1948年(昭和23年)6月、ヤング(米国連邦制度理事会調査統計局次長)報告。その骨子は、「10月1日までに単なる軍事交換相場の改定にとどまることなく、単一かつ一般的な為替相場を設定すべきである」とするものであった。これについては、1970年(昭和45年)暮れに発表されるまで機密文書扱いのままであった。1948年(昭和23年)7月に新物価体系の発動で1ドル=270円とされる。同年8月、芦田内閣がヤング報告に盛られた経済安定10原則を決定するも、日本側としては、当時の経済状況では、その実施は時期尚早とみなし、重い腰を上げようとしなかった。ここに10原則とは、(1)生産、(2)割り当て配給、(3)食糧の供出、(4)公定価格、(5)賃金、(6)脱税防止、(7)租税制度、(8)財政収支の均衡、(9)貿易為替管理、(10)融資規制に関する安定計画となっている。1948年7月に新物価体系の発動で1ドル=270円となっていた為替相場に、変革の次期がやってきました。この年の「新新物価体系」に至っても、闇価格はまだ残存し、公定価格より相当高い水準のままであった。
 ここで、戦前の1934(昭和9年)~1936年(昭和11年)を1としたときの物価の動きは、卸売物価は1945年(昭和20年)3.5で前年比倍率は1.51であるのに対し、消費者物価は計数不明、1946年(昭和21年)は卸売物価が16.3で前年比倍率は4.64であるのに対し、消費者物価は50.6で前年比倍率は不明であった。1947年(昭和22年)は卸売物価が48.2で前年比倍率は2.96なのに対し、消費者物価は109.1で前年比倍率は2.16であった。1948年(昭和23年)は卸売物価が127.9で前年比倍率は2.66、消費者物価も189.0で前年比倍率は1.73といずれも加速上昇中である。1949年(昭和24年)になると、卸売物価が208.8で前年比倍率は1.63でやや増加のテンポが鈍ってきたのに対し、消費者物価は236.9で前年比倍率は1.25でまだ伸びが大きい。1950年(昭和25年)は卸売物価が246.8で前年比倍率は1.18、消費者物価も219.9で前年比倍率は0.93となり、いずれの指標も落ち着き始めている。そして1951年(昭和26年)は卸売物価が342.5で前年比倍率は1.39なのに対し、消費者物価の方も255.5で前年比倍率は1.16となって、おおむね落ち着きの傾向が強まっている(中村隆英「昭和経済史」経済セミナーブックス、1986より引用させていただいた)。
 これらの背景には、実物経済面でも、1948年(昭和23年)の終わりぐらいから、工業生産と農業生産が、前者は戦前水準のおよそ6割、農業生産もようやく回復してきたことが上げられるだろう。こうして世の中に物資が少しずつ増えてくるに従い、それまでヤミ価格を先頭に物価が止めどもなく上がってきていたのが、両者の間のひらきも縮まり始めたのである。

(続く)

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