781『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1970~1988)
ポーランド経済の1970年~1980年は、対外開放期といわれる。1970年には粗放な投資等で経済は厳しい状況となっていた。なお、当時の生産体制は、つぎのような構成となっていた。
「まず、ポーランドの工場数と所有形態別動向(1970年)は、工場総数:167,500、社会化数:51,300、社会化数のうち国有:20,100、社会化数のうち協同組合有:30,900、非社会化数:116,200。
また、ポーランドの工場労働者数と所有形態別動向(1970年)は、工場労働者:4,464.000、社会化工場:4,274,700、社会化工場のうち国有:3,724,700、社会化工場のうち協同組合有:530,100、非社会化工場:189,300
。」(出所)Rocznik Statystyczny1976,1980,1983.、(引用)左治木吾郎「ソ連の体制転換と経済発展」文眞堂、1992)
経済の低迷は、政治に跳ね返っていく。国民にとって、一番我慢がならなかったのは、国民の最も基本的な物資である、食料品の大幅値上げであった。これに端を発する形で、労働者によるグダンスク抗議行動が起こる。そうして世情が不安となる中でギエレク政権に交代する。ギエレク新政権は、経済改革により国民の不満を解消しようと試み、積極的な外資導入を行い、一時期は国民所得の増加も見られものの、抜本的な改革は実現できなかった。そして迎えた1970年12月、ポーランドのゴムルカ政権が退陣する。これは、グダニスクの労働者の抗議の渦の中での出来事であった。
1980年の夏の7月、政府は財政逼迫から食料品の値上げに踏み切る。これに怒った労働者のストライキが、全国規模で起こる。このため、政府は「グダニスク合意」(8月31日に調印)によりなんとか収拾に漕ぎ着ける。この合意では、スト権や自由労組の結成の自由などが盛り込まれる。グダニスク造船所を拠点とした全国規模の自由労働組合「連帯」(議長はレフ・ワレサ(レフ・ワレサ(ポーランド語ではレフ・ヴァウェンサ)、組合員は約950万人)が9月に結成される。これに促される形で、全国規模で自主管理労働組合「連帯」が生まれていくきっかけになっていく。しかし、こうした市民、労働者の意識の変化は、政治の季節の到来となって、社会主義の基盤を堀崩す役割を担っていく。
その後1980年から1983年7月の間は、体制内改革期と言われる。この時、「連帯」運動の高まる。1980年7月には食肉値上げに反対する大規模ストが起こる。この年の8月、政府はスト労働者との間でいわゆる「グダンスク合意」を結び、これにより、ソ連圏では初めての自主管理労働組合(「連帯」)が誕生する。1980年9月、ギエレクの後をついだカーニャ第一書記は「グダンスク合意」を尊重し、「連帯」との対話路線をとる。しかし、経済の不信継続があり、政局も混迷を深めたことで、1981年10月、軍人出身のヤルゼルスキ首相が党第一書記を兼任するに至り、彼は同年12月、戒厳令を導入する。
1981年6~7月、統一労働者党の第9回、次いで第10回の党大会で、社会主義を再生させようとする方針を打ち出す。指導部選出にあっては、初めて秘密投票、複数候補の直接民主制が採用される。1981年12月13日、統一労働者等の第一書記、首相を兼ねるボイチェフ・ヤルゼルスキ将軍が秩序回復を名分にポーランド全土に戒厳令を発する。この中で、自主管理労働組合「連帯」も1982年10月に非合法化される。この戒厳令が解除されたのは1983年7月のことであった。
1983年7月に戒厳令が解除されてからは、ヤルゼルスキ政権はしばらく社会主義の枠内での経済改革を試みる。しかし、みるべき効果は上がらない。1988年春から夏には再び労働者の抗議運動が高まりを見せる。1988年8月、ポーランドで困難化する経済状況などの打開を目指して、政府が教会、反体制グループも含むすべての社会勢力を一堂に会しての円卓会議を提案する。この円卓会議は、1989年2月から4月にかけておこなわれる。「連帯」等の在野勢力の協力なしには改革が行き詰まると考えたヤルゼルスキ政権は、1989年1月のポーランド統一労働者党中央委員会総会において「政治的多元主義、労組多元主義」を認める。これにより反体制側との対話の道を拓くという政治的転換に踏み切る。1988年8月、政府批判のストライキが全国に広がったのをみて、政権は従来の態度である弾圧路線をついに改める。
(続く)
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