♦️562『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエル(1945~1957)

2017-11-30 14:33:01 | Weblog

562『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエル(1945~1957)

 1945年といえば、ユダヤ人防衛組織ハガナによる、ユダヤ人のパレスチナへの不法入国を援助していました。過激派によるテロ事件も頻発していました。イギリスはといえば、ユダヤ人の入国の阻止へと動いていました。この同じ年、なんとか両民族の紛争をなだめようとするイギリスが中心となって、アラブ連盟を結成しました。1947年、イギリスは、移民希望者を満載した「エクソダス号」や「テオドール・ヘルツル号」の入港を拒みました。パレスチナの地では、ユダヤ人とパレスチナ人との争いが、ますますエスカレートしていました。
 1947年4月、イギリスは国際連合に問題解決を任せることにしました。国連は、さそくパレスチナ特別調査委員会(UNSCOP)を編成し、数ヶ月の調査の後、次の案を出します。その骨子としては、パレスチナにユダヤ国家とアラブ国家を樹立するという決議を採択した。具体的には、当時パレスチナの土地の7%を所有し、全人口140万人のうち45万人を占めていたユダヤ人に対し、全土の57%の土地を与えるという、パレスチナ人に大いなる苦難を与えようとするものであった、といわざるをえません。1947年11月29日、この案は総会に於いて採決に回され、予想に反して賛成が33、反対が13、そして棄権が10ということで原案が採択されたのです(「国連決議181」)。
 1948年には第一次中東戦争が起きました。この年の3月、シリアがシオニスト排除の軍隊を出動させます。これにシオニストが反撃し、双方とイギリスであわせて約5000人の命が失われた、と伝えられています。1948年5月14日、イギリスが統治権を放棄しました。これをシオニストたちが見逃すはずがありません。その数時間後には、シオニストの代表であるベングリオンが、我々は明日の5月15日午前0時を期してイスラエル共和国を独立させることを宣言しました。それを受けて、65万人ものユダヤ人たちの意識は最高潮に達したのは疑いありません。ついいに実力行使でもって長年のゆめであった民族としての安息の地が獲得できたのですから。
 予定どおり、彼らは2000年にも渡る流浪の時代に終止符を打とうとイスラエルの建国を宣言しました。彼らは「旧約聖書」でいう神話の世界での話ながら、紀元前2000年頃とも言われるアブラハムの子孫として、パレスチナの地にて独自の新しい歴史を刻印していこうとしたのに他なりません。すると、これに反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン、その他パレスチナのアラブ人部隊など)がパレスチナへ進軍しました。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれ、イスラエル軍より多数でした。にもかかわらず、アラブ連合軍は各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気ももりあがりませんでした。
 この間に、二度の休戦期間がありました。この間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功しました。ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になっていきました。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れたのです。アメリカなどに支えられたイスラエル軍は奮闘し、これにアラブ各国の軍は各個撃破された格好となり、個別に和平条約を取り結ぶというアラブ側にとって屈辱的な結果に終わりました。この戦争によって、イスラエルの領土は、国連による分割決議以上の範囲にひろがった(パレスチナ全土のじつに77%)ことになります。残った土地についても、ヨルダン川西岸はヨルダン王国にとられ、ガザ地区はエジプト王国に併合される結果をもたらしたのです。
 やがて第二次中東戦争の幕が上がります。事の背景としては、1952年、エジプトのナセルたち自由将校団がファルーク国王を追放する軍事蜂起を決行し、共和国制を宣言したのに始まります。シン政権の首相となったナセル(当時)は「汎アラブ主義」を掲げ、列強からの干渉や圧力をはねのけ、自立の道をあゆもうとしました。その一環として、彼の政権はアスワン・ハイダムの建設を志し、その建設費の一部にスエズ運河の使用料を充てようとし、スエズ運河の国有化を考えるようになりました。
 ところが、当時スエズ運河運営会社の株を所有し、かつまた石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用していたイギリスとフランスは、これを認める訳にはいきません。1956年にはエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になりました。エジプト大統領になっていたナセルは同年7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表しました。
 ここに至り、イギリス・フランス両国は、同年10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入したのです。ここでなぜイスラエルがこの戦争に参加したのかと言えば、エジプト政府による国有化とそれによる封鎖がなれば、イスラエルにとって紅海(こうかい)への出口であるチラン海峡(アカバ湾と紅海の間の海峡)に出入りすることが不可能になるであろうからでした。
 戦争は1956年10月29日、イスラエルによるシナイ半島への侵攻により開始されました。この作戦により、エジプト軍は総崩れとなりました。こうしてシナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなりました。イスラエル軍が進撃中の、11月5日になり、フランスとイギリスの空挺部隊も空から攻撃を進めました。かれらの陸軍部隊もスエズ運河地帯に上陸しました。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリスとフランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こりました。アメリカの態度(アイゼンハワー大統領)には、アメリカとの打ち合わせもないまま戦争に持ち込んだイギリスとフランスに不満であるとともに、ハンガリーにおけるソ連の軍事介入とスエズ動乱がリンクすれば米ソの核戦争を呼び起こすこともあることを懸念ほ持っていました。
 そこで1956年11月に入り、国連総会がイギリスとフランスの軍隊、そしてイスラエル軍の即時撤退を決議するや、彼らは6日には国連の停戦決議を受け入れ、撤退することを表明するに至りました。これがPKO(国連の平和維持活動)の起源でもあります。
1956年12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れざるをえませんでした。
 エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、同年3月にスエズ運河の運行を再開しました。一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれるこの戦争で、エジプトはひとまず「戦争に負けて、政治で勝った」という形になり、戦争継続による国家的破綻をまぬがれたのでした。

(続く)

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