725『自然と人間の歴史・世界篇』タジキスタン
タジキスタン共和国(通称タジキスタン)は、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベだ。その地理的領域は、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王により制圧される。紀元前250頃、グレコ・バクトリア王国が成立する。1~3世紀、インドのクシャーン朝による支配を受ける。6世紀中頃からは、テュルク系遊牧民の突厥(とっけつ)の侵入が相次ぐ。ここに、住民のテュルク化が始まる。7世紀、ソグド人の活動が最盛期に。8世紀以降、アラブ勢力の侵入がある。土着のイラン系住民がイスラーム教を受容する。テュルク系諸民族がこれらイラン系住民をタジクと呼ぶようになる。9世紀後半~10世紀、イラン系のサマン朝が成立する。この治世下では、文芸・学問が大いに発展する。
13世紀、モンゴル帝国の支配下にあった。14世紀後半~15世紀、この地はティムール帝国の支配に服す。16世紀、シャイバーン朝の支配を受ける。18~19世紀、ブハラ・ハン国とコーカンド・ハン国の支配を受ける。1860年代、現在のタジキスタン北部がロシア帝国に併合される。1890年代、パミール地方の大部分がロシア帝国に併合される。
1924年、中央アジアの民族・共和国境界が画定される。これにより、ウズベク・ソビエト社会主義共和国内にタジク自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1929年、ウズベク共和国から分離し,タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格する。1990年2月には、ドゥシャンベ事件が起こる。この事件は、アルメニア難民移住への抗議行動を契機とする騒乱事件であった。
第二次世界大戦後、ながらくソ連邦で一翼を務めていた。その後の政治流動化で、こり国の状況は大きく変わっていく。1990年8月、共和国主権宣言を発す。1991年8月31日、国名を「タジキスタン共和国」に変更する。1991年9月9日、共和国独立宣言を発す。1992年5月には、内戦状態に陥る。1992年11月、ラフモノフが最高会議議長に就任する。1994年11月、ラフモノフ大統領が選出される。1997年6月、タジキスタン内戦の和平合意が成立する。2016年5月、憲法改正が行われる。これにより、フモン大統領の大統領職任期制限撤廃、大統領選の立候補年齢引き下げが行われる。
(続く)
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