♦️125『自然と人間の歴史・世界篇』五胡十六国と晋の南渡

2017-11-23 10:08:47 | Weblog

125『自然と人間の歴史・世界篇』五胡十六国と晋の南渡

 五胡十六国(ごこじゅうろっこく、中国読みでウーフーシーリョウグゥオ)というのは、
何をいうのであろうか。これは、304年に、黄河が北へ大きく湾曲する山西に匈奴(きょうど)の劉氏・劉淵が自立して漢(前趙)と称したのに始まる。それからは、相前後して羯(けつ)(匈奴の一種)、鮮卑(せんぴ)(東胡系)、?(てい)(チベット系)、羌(きよう)(チベット系)の、合わせて五つの非漢族が、中国平原の華北から華中の地に国を打ち立てていく。彼らにより、439年北魏が華北を統一するまでの、およそ100年位の間におよそ16もの国が興亡を繰り返したことをもって、この名が付いたものだ。
 これより前、彼らのそもそもの暮らし向きは、主に遊牧であったのではないか。これらのうち匈奴は、前漢の時代に中国史の表舞台に登場する。1世紀後半には、後漢に叩かれて大打撃を受ける。その一派であるフン族は、西へと走ってウラル山脈を越えて尚も西へ進んでいく。そして、ゲルマン民族を突き動かして、彼らの西ヨーロッパへの大移動を引き起こしていく。なお、匈奴には別の一派もあって、彼らは後漢に降り、漢人と共存の道をとったことで「南匈奴」と呼ばれる。そればかりではない。匈奴の移動で勢力の空白が生じた東北方には、羯や鮮卑が進出してくる。また、中国平原の西からは?や羌が押し出してくる。
 魏、呉そして蜀の三国鼎立の時代に入ると、彼ら遊牧民族は主に魏の柵外に定住していく。さらに万里長城内に移住してくる。そうした集団がますます多くなっていく。続いての晋(西晋)代にかけては、黄河流域を中心に大規模な集団移住が相次ぐ。さらに2世紀になると、彼らの相当部分はさらに大胆に中国の平原地帯への進出を遂げていく。その矛先は、当然、中国の王朝が強固に支配している地域にも及んでくる。一説には、ゲルマン民族がローマ帝国の傭兵(ようへい)としてその領内に移住していった。その時と同じように、彼ら五胡の北方民族も、軍事力として用いられていく。そんな中で、しだいに力を伸ばしていく。彼らは、中国内にますます多く移住してくる。ついに、これに圧迫されて、西晋はついに華南へと避難するにいたる。都を南の建康(現在の南京)におき、それからを東晋と呼ぶ。
 戦乱で荒れ果てた華北の地には、前述のように、まずは匈奴による漢(前趙)、?による成漢、漢人による前涼など小さな国々が生まれる。集い固まっていくのではなく、それぞれが覇を競うようになっていく。319年には、漢(前趙)の石勒(せきろく)が後趙を建国し、さらに洛陽の戦いで劉曜の前趙を破って330年に皇帝の位につく。後趙は、都を長安において、漢の文化を取り入れる。石勒は漢族から多くの官吏を集め、彼ら自身の中国化を進めていく。彼は、中国固有の文化のみならず、西から伝わった仏教を篤く信仰し、僧侶の仏図澄を重用する。
 351年、後趙が怠惰な政治と度重なる戦争により力を失うと、代わりに勢力をのばしたのは?族の符健が建てた前秦である。三代皇帝となったのが符堅で、彼は370年に前燕、376年には、前涼と、拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。前秦の軍隊は?、羌、鮮卑、匈奴、漢人による混成軍団であったという。それからの前秦だが、383年、南へ進んで東晋の都、建康に攻め込む。東晋は迎え打ち、大勝利をおさめる。これを「?水の戦い」という。この後、前秦の各部族は独立して争うにいたる、華北は分裂状態に陥った。その後、398年には、北魏が誕生し、平城(大同)を都に定めて華北で力を強めていく。一方の東晋が治めていた地には420年に宋が東晋を攻めて王朝を開く。ほどなく北方では、北魏が華北の統一を成し遂げる。ここに五胡十六国時代は終わり、中国は南北朝時代に入っていく。

(続く)

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