♦️549『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ラオス)

2017-11-19 09:35:22 | Weblog

549『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ラオス)

メコン川上流に位置するこのあたりには、古くから首長を戴く小国家が群立していたらしい。1353年、現在のラオスの地には、最初の統一国家ランサン王国が建国される。「ランサン」というのは、「百万頭の象」を意味する。初代の王の名は、ファグームという。この王国には、隣の現在のカンボジアの地で繁栄していたクメール王国から仏教が伝わった。王は、クメール王国から僧や技工を迎え、スリランカからも仏像を輸入するなどし、都のルアン・プラパンは学術都市としても賑わう。1560年のセーティラート王の治世では、都をビエンチャン(ヴィエンチャン)に移す。18世紀になると、ランサン王国はビエンチャン、ルアン・プラバン、チャムパサッサの3国に分裂する。後のことだが、上座派仏教の雰囲気を艶やかに伝えるルアン・プラバンの町は、1995年に世界遺産に指定された。
 話を戻して、3国に分かれてからは、タイ、フランスのなどの支配を受ける。1945年3月9日、日本軍がインドシナ駐留仏軍を武装解除(仏印処理)し、この地域での支配権を確立する。ラオスの国土も1899年に仏領インドシナ連邦(1887年に成立し、ハノイに総督府)に編入されてしまう。また、1930年には、この植民政策に反対するインドシナ共産党が組織されていた。日本は同年4月8日、ルアンパバーン王国の王シーサワンウォンをラオスの王として独立させる。
 1946年、日本の敗戦により、フランスによるラオス再植民地化が始まる。1949年1月、フランスによる再植民地化に抗してカイソーン・ポムウィハーン、スパーヌウォンらが後の「パテト・ラオ」となる軍事勢力を結成する。1949年7月19日、フランス・ラオス協定で戦闘が停止し、ラオス王国として独立の気運が高まる。独立後もフランス連合にとどまることで妥協がなったのだ。そして迎えた1953年、完全独立を果たす。1954年7月、ジュネーブ協定でラオスからの外国軍隊の撤退が決まる、パテト・ラオ勢力のラオス北部2州への結集があり、また統一選挙を実施することが決まる。
 1955年3月22日、ラオス人民党が発足する。初代書記長にはカイソンが選ばれる。(同党は1972年にラオス人民革命党と改称)。1956年1月6日、今度はラオス愛国戦線(パテト・ラオ)が結成される。以後、「パテト・ラオ」と「ラオス王国」右派との内戦続いていく。同年11月になりラオス内戦停止協定が結ばれ、12月にはラオス王国政府とパテト・ラオとの間で協議が成り、統一政権が発足する。

(続く)

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♦️553『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(台湾)

2017-11-17 22:54:08 | Weblog

553『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(台湾)

 現在の台湾は、自らは「中華民国」と名乗っている。19世紀末、日本は清国との戦争に勝利し、台湾の統治権を得る。

 これ以後、日本が第二次世界大戦で連合国に敗北するまでの約50年の間、台湾は日本の植民地として、元からの人民を支配する。日本の統治に対して、当初は台湾住民の抵抗が強く、約5年間続いた紛争では、1万人以上の台湾人が戦死したり、虐殺されるなどしたという。このことでは、現在、論評が少ないものの、日本の罪はわずか70年位で忘れられてよいものではあるまい。
 1949年には、蒋介石が率いる国民党の勢力が、中国大陸での国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて台湾に移り、現地の支配権を確立して、「中華民国」を名乗る。その際にも、消して平和的に行われたものではないことに、留意すべきだろう。

 その台湾では、やがて新たな国づくりが軌道に乗っていく。

(続く)

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♦️552『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(東ティモール)

2017-11-17 22:53:06 | Weblog

552『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(東ティモール)

 16世紀前半、リウライ(王)が割拠し、王国が乱立している中で、ポルトガルが東ティモールに白檀(びゃくだん)を求めて来航し、ティモール島を征服しました。17世紀半ばには、オランダが西ティモールを占領しました。1701年、ポルトガルがティモール全島の領有を宣言しました。1859年、ポルトガルとオランダの間でリスボン条約が結ばれ、それぞれ東西ティモールを分割し、植民地支配を本格的に開始しました。
 1942年、「大東亜共栄圏」を掲げアジア全域に侵略のため進出の足を伸ばしていた日本が、ティモール全島を占領しました。1945年、第2次世界大戦終了後、ポルトガルによる東ティモールの支配が回復しましたが、西ティモールについてはインドネシアの一部として独立を果たしました。

(続く)

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♦️551『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(シンガポール)

2017-11-17 22:52:11 | Weblog

551『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(シンガポール)

 1819年、オランダ系東インド会社スタンフォード・ラッフルズ隊がこの地に上陸した。1824年、英国とオランダの間で英蘭条約が締結された。これにより英・蘭間の勢力範囲が確定される。

 英国とジョホールのサルタン(地方の実力者)との取り極めが成り、シンガポールの完全主権と永久領有が認められる。1867年、英国政府直轄海峡植民地となる。
 1942年2月には日本軍がシンガポールを占領し、「昭南市」と改名し、軍政をスタートさせる。1945年、日本の敗戦後、シンガポールは再びイギリスの植民地となる。1946年にはマレーシアから分離した上、イギリスの直轄植民地(英軍による軍政施行)となる。

 1948年にはイギリスが立法評議会を復活させ、一部の委員を住民による直接選挙が成る。この年にはその選挙があり、またマラヤ共産党が武装蜂起するなど、植民地からの解放を訴える民族独立運動が活発になっていく。この独立運動の中心となったのが、リー・クァンユー(後のシンガポール首相)が率いる人民行動党(PAP)であった。
 1948年、第一回の総選挙が実施される。非常事態が布告される。1954年には立法評議会の立法議会への改組があり、住民選挙で選出された政党の代表に行政権限を与えるようになる。同年には人民行動党が結成される。

 翌1955年には、立法議会選挙が実施され、国防と外交を除いて、部分的ではあれ、自治政府による政治が始まり、マーシャルが初代の首席大臣に就任する。

 1959年、イギリスの植民地から外交と国防を除いた広範な自治権を持つ自治領となる。また、人民党行動党による政権が発足し、マレー語を国語に指定する。
 1961年にはPAPが分裂し、社会主義戦線が結成となる。1963年、マラヤ、サバ、サラワクと共にマレーシア連邦を結成し、英国より完全独立をはたす。

 そきて迎えた1965年8月、マレーシアから分離独立を果たし、大統領を元首とする共和国を構える。

(続く)

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♦️548『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(フィリピン)

2017-11-17 22:49:51 | Weblog

548『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(フィリピン)

 フィリピン共和国の国語であるフィリピノ語は、タガログ語を基本にし、スペイン語や英語などから借用語を採り入れています。なお、タガログ語はタガログ人の話していた言語です。
19世紀末、スペインとアメリカがフィリピンの領有を巡って衝突する。村上堅太郎氏の論考には、こうある。
 「1898年キューバの反乱を援助するこによってアメリカ合衆国はスペインと戦うに至った。戦闘は容易にアメリカの勝利に帰し、キューバの独立とフィリピン・グァムの米国領有が講和会議で定められた。フイリピンには英仏露等が野心を持っていたが、一方フィリピン内部にはアギナルド等の民族的独立運動があり、アメリカはこれと提携してスペインを破ったのであった。しかし国際的に孤立しつつあったイギリスはむしろドイツに対抗するためにアメリカのフィリピン併合を支持するに至り、ついにフィリピンはアメリカに帰属することとなった。この後に続いたアギナルドの反乱は1902年鎮定された。」
(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956、161)
 1935年 独立準備政府(コモンウェルス)が発足しました。1942年、日本軍がフィリピン国土を占領し、軍政を開始しました。フイリピンの独立にいたる経緯についても中野広策氏の論考に、こうある。
 「フィリピンでは民族資本の形成を背景として1896年に独立運動が高揚したのであったが、1898年のアメリカ・スペイン戦争によるアメリカの勝利によって挫折した。その後、フィリピンはアメリカの植民地政策にもとづいて支配されるにいたった。アメリカの植民地政策は、「政治的後退、経済的前進」という形で特徴づけられているが、この線に沿って1916年のジョーンズ法で将来の独立が約束され、1934年のタイディングス・マクダフィ法で1946年7月4日が独立予定日と定められた。
 かくして、フィリピンの場合は、アメリカ帝国主義との力関係からして政治的代償の内容は確定されていたのであるが、それが日本帝国主義との闘争の代償として与えられるという形をとったのである。」中野広策「新興独立国の経済危機と国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎監修「現代の世界経済と国際関係」河出書房新社、1971に所収。
 そして迎えた1946年7月4日、フィリピン共和国が樹立されました。

(続く)

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♦️544『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(インドネシア)

2017-11-17 22:42:01 | Weblog

544『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(インドネシア)

 1945年8月17日、インドネシアが独立を宣言しました。ところが、植民地の復活をもくろむオランダはこれを認めず、戦闘が続きました。1946年11月15日、オランダとインドネシアとの間で休戦協定が結ばれました。それもつかの間、47年7月21日には再び交戦、48年1月17日になって両国は停戦協定にこぎ着けました。1949年11月2日、オランダとインドネシアがハーグ円卓会議に集い、国際世論を背景にする形でハーグ協定を結びました。そして同年12月27日になって、インドネシア連邦共和国の建国がなりました。民族運動のリーダーであるスカルノが初代の大統領になりました。
 このインドネシアの独立に至る道には、中野広策氏による次の指摘があります。
 「インドネシアでも、第2次大戦中の1942年12月、日本帝国主義との闘争の代償としてオランダ・コモンウェルス内での政治的独立を与えるというウィルヘルミナ女王のラジオ放送が行われた。しかしインドネシア側はこの種の独立を認めず、1945年8月17日に、スカルノ、ハッタらの独立運動の指導者はインドネシア民主共和国の独立宣言を行った。
 その後、インドネシアとオランダは、資本主義世界体制の内部での政治独立の程度をめぐって闘争状態に入った。イギリス軍に助けられたオランダ軍は、日本軍の補助兵力として組織されていた郷土防衛義勇軍を中核とするインドネシア軍事勢力を破ることができなかった。こうした状勢のうえに、アメリカ軍からのマーシャル援助供与の代償として軍事行動の停止要請もあって、1948年1月17日にはレンビル停戦協定が結ばれた。
 さらに、翌1949年11月のハーグ協定にもとづいて、インドネシアは12月29日インドネシア連邦共和国(1950年8月15日連邦制から単一共和国となる)として資本主義の世界体制の内部での政治的独立を達成した。この政治的独立も西イリアンに対するオランダの支配の継続という問題を残しており、インドネシア側を完全にには満足させるものではなかったが、韓国やフィリピンのように帝国主義国によってつくりだされた政治的独立と異なって、闘いとられた政治的独立であった。」(中野広策「新興独立国の経済危機と国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎監修「現代の世界経済と国際関係」河出書房新社、1971)
 インドネシア共産党は1948年、武装反乱による社会主義政権の樹立に失敗し、以後は独立後のスハルト体制の下で、平和革命路線に路線転換していきました。
 スカルノ体制とは、軍とこの共産党という、見方によっては相反する勢力の均衡の上に乗っかかった不安定きわまる政権でありました。
 1955年、スカルノはバンドゥンで開催されたアジア・アフリカ会議を成功に導きました。

(続く)

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♦️543『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(タイ)

2017-11-17 22:41:01 | Weblog

543『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(タイ)

 1946年3月24日~8月21日、タイ首相にプリデイ・パノムヨンが就任したものの、5か月後には辞任しました。その間の時期の同年6月にはタイ国王が暗殺されました。
1947年11月8日、タイでピブン元帥による軍事クーデターが起きました。極端な国粋主義者であったピプンの政権は、第二次ピブン内閣(1948-58年9月)のとき華人圧迫政策をとります。クーデター未遂事件も起きて左右勢力が陰に日向にせめぎ合う形でぎくしゃくした政情不安の時代であったと言えるでしょう。
 1951年6月29日、タイの海軍で反乱事件が起きました。1952年2月26日、タイで総選挙が実施されました。同年11月13日には反共法が成立しました。1957年9月16日、タイではサリット将軍による軍事クーデターが起こります。1958年1月9日、タノム内閣が発足しました。1958年10月にサリツト元帥が革命団政権を樹立し、翌1959年2月9日にはサリット内閣が発足しました。この政権はその後、華商両派との癒着を強めながら1971年まで続くことになります。

(続く)

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♦️540『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ホンジュラス)

2017-11-14 22:12:54 | Weblog

540『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ホンジュラス)

 1502年、コロンブスが、第四回の航海で現在のホンジュラスの地を発見する。この地の西部に住んでいたマヤ系原住民と接触したとされる。1539年、スペインのグアテマラ総督領に編入される。1821年、独立する。1823年、中米諸州連合(中央アメリカ連邦)を結成する。1838年、中米諸州連合より分離独立を果たす。1859年には、イギリスが占領地を返還することで、この地に権益を持つイギリスとアメリカアメリカとが和解にいたる。アメリカは、この地のバナナ栽培と、その輸送手段とての道路や鉄道を支配するにいたる。1902年にはユナイテッド・フルーツ社が、1905年にはスタンダード・フルーツ社がバナナ栽培に加わる。
 1933年、T・カーリアスが大統領となり、アメリカの庇護の下で独裁政治を敷く。
この独裁は、1949年まで続く。カーリアスが失脚した後、ガルベスが大統領職を継ぐが、1954年の大統領選挙では過半数を得た者がなく、ロサノが臨時の大統領となる。1956年、軍事クーデターがあリ、ロサノ政権が崩壊する。これが二度目のもので、彼ら軍部は過去の失敗から学んだ結果といえる。この暫定政権は選挙を実施し、ラモン・ビィエダ・モラレスが大統領に当選する。この政権の時、ホンジュラスの鉄道の部分的国有化や労働法の制定、さらに土地改革の準備に取りかかる。また、外交では、キューバと断交するのであった。
 1963年、ラモン・ビィエダ・モラレス大統領の再選が確実視される状況の下で、再び軍が政治に介入して大統領を追い込む。このため、ラモン・ビィエダ・モラレス大統領は亡命を余儀なくされる。1965年には、米国と米国資本の息のかかったオズワルド・ロペス・アレヤーノ大佐が政権を力づくで継承していく。今にして思えば、この政変劇の仕掛け人の直接の動機として、グアテマラに比べてより緩慢かつ穏健ながらも、「農地改革」というものへの恐怖心があったことは確かなこととされて然るべきだ。

(続く)

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♦️539『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(パラグアイ)

2017-11-14 22:11:18 | Weblog

539『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(パラグアイ)

 現在のパラグアイ共和国は、南アメリカ大陸の中央南部に位置する。南はアルゼンチン、北東はブラジル、北西はボリビアとそれぞれ国境を接する、内陸国である。パラグアイというのは、原住民グアラニーの言葉で「大河のある土地」のことだという。現在も、スペイン語のみならず、グアラニー語も継承しているとのこと。
 1537年、現地に進出したスペインが、首都のアスンシオンを建設する。1811年、スペインから独立する。1864年~1870年には、ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍に対する戦争があった。これに敗れて、領土の半分と人口の約6分の5を失う。1864年~1872年には、パラグアイ戦争があった。1872年ブラジルは、パラグアイと講和条約を結ぶ。1880年代に入り、国民共和協会(コロラド党)と自由党が結成される。
 1932年~1935年、 チャコ戦争(対ボリビア)に勝利する。1954年の軍事クーデターにより、アルフレド・ストロエスネル将軍が率いる軍部が政権を掌握する。そして1958年には彼は大統領となり、これが以後35年間にわたる独裁政権の始まりとなる。

(続く)

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♦️538『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ボリビア)

2017-11-14 09:55:07 | Weblog

538『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ボリビア)

 現在のボリビア共和国は、、南アメリカ大陸のほぼ中央に位置する。ブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチン、そしてパラグアイの5つの国に囲まれる。人種的には混血国家であるものの、原住民インディオの要素が強い。
 1533年にインカ帝国がスペインにより征服されたことで、今日のボリビアにあたる地域は「ペルー副王領」の管轄下に組み入れられる。この地域は、「アルト・ペルー」という呼称で呼ばれる。1776年、このアルト・ペルーは「ラ・プラタ副王領」に転入される。1809年頃からスペインからの独立の戦いが起こるが、鎮圧がくりかえされる。
そして迎えた1824年、ペルーとともに、S・ポリーバルによってアルト・ペルーを含近隣地域のほとんどが解放される。その一つの戦いとしての1825年、スクレ将軍の率いるポリーバル軍によってスペインより解放される。同年8月に独占宣言を発し、国名をボリビア共和国とする。そして翌年には、ポリーバルが起草した憲法草案が採択される。
 1879年~1935年においては、チリ、ブラジル、パラグアイと相次いで交戦することで、約60%もの国土を失う。1951年、MNR(民族革命運動)の推すビクトル・パス・エステンソロが選挙に勝利し大統領に就任すると、軍部がクーデターを起こして実権を掌握する。これに対し、1952年4月8日から11日の間民衆が武装蜂起し、15日には亡命していた大統領が復帰を果たす。これが「ボリビア革命」と呼ばれるもので、政府は一連の改革をと進めていく。
 1964年にパスが大統領3選をねらった憲法改正を企て、これに失敗すると、MNRは弱体化していく。その間隙を縫っての1964年に、軍部がクーデターで政権を掌握し、バリエントス政権が発足する。1967年にアメリカの軍事援助を受けて反政府ゲリラの鎮圧に乗り出す。そして同年10月には、キューバから反政府運動へ加勢に参じていたエルネスト・チェ・ゲバラが政府軍に捕縛され、銃殺される。その後の政権だが、1969年に同大統領が死亡すると、1969~70年の左派軍事政権を経て、1971年8月今度は右派の軍事政権に替わって、引き続いて軍部(~1982)が国政を牛耳っていく。

(続く)

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♦️31『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(20万~5万年前、ホモ・サピエンスの1回目の出アフリカ)

2017-11-11 22:58:08 | Weblog

31『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(20万~5万年前、ホモ・サピエンスの1回目の出アフリカ)

 さらに時代は下って、20万年前から13万年前までが氷期であった。およそ20万年前、私たち人類の祖先、つまり私たちに直接繋がるホモ・サピエンスが地球上に現れる。その数は、始まりは精々数千人程度ではなかったか、とも言われる。具体名でいうと、ハイデルベルク人の本流の系統からホモ・サピエンス(現生人類)が登場するに至る。そして人類、すなわち、「ほ乳類霊長目(サル目)ヒト科」のヒト(ホモ)属の中で、現在まで生き残っているのは、私たちホモ・サピエンスだけなのである。エレクトスの約165万年と比べたこの種の存在期間は、たかだか9分の1程度に過ぎない。
 長い間、ホモ・サピエンスに先行する人類種は、系統樹のように連なっていると考えられてきた。しかし、今日ではホモ・サピエンスとは異なる流れであると考えられている。彼らが、早ければ約15万年から10万年前に第一次が、そして約6万年~5万年前に第二次ということで、アフリカまたはその近辺からアジア方面への長い旅に出発したのではないか、と推定されるまでになっている。そうはいっても、専門家が一致しての結論が出るのは、まだ遙かに先の話なのかもしれない。いずれにしても、今後も飽くなき探求が続いていくのであろう。誠に、「大いなる旅」(グレイトジャーニイ)というか、それはそれは文字通り「血湧き、肉躍る」ような、人類を、人類たらしめる偉大な旅の始まりであった、と言える。

(続く)

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♦️30『自然と人間の歴史・世界篇』人類種の交配の可能性(35~20万年前)

2017-11-11 22:56:36 | Weblog

30『自然と人間の歴史・世界篇』人類種の交配の可能性(35~20万年前)

 次に話題になるのが、進化がさらに進んで、かれらが枝分かれしながら延々と進化を遂げてきたものなのか、また、かれらのそれぞれの生きていた年代と地域分布が重なることはなかったのであろうか。1970年代からの発掘により、人類段階説は覆され、「アフリカで猿人と原人とが同時代に同じ場所にいたことを示す発掘」(朝日新聞、2015年7月4日付け)があった。これらから、「原人」というのも一系統による進化なのではなく、地域の広がりをもった多系統に及んでいたと考えるのが、有力になっていく。というのも、彼らのそれぞれは単一の系統で伝わってきたと考えるだけの証拠はない。しかも、いきなりにして、その成人体重50キロから100キログラムにして平均で1400ミリリットルもの脳容積を持つ、「新人」(「ホモ・サピエンス」)になったというのは、非現実的な気がしないでもない。
 およそ3万~4万年前には、ネアンデルタール(原)人が絶滅したともいわれる。ここで、彼らの遺伝学的得失に触れておくと、近年、ある解析結果の発表があった。これは、福岡伸一氏によりこう紹介されている(ただし、その評価を巡っては各説あるので、断定的でない)。
 「学者たちは、ネアンデルタール人をヒトよりも前段階にあるヒトの祖先、旧人だとみなし、現世人類はネアンデルタール人が進化したものだと考えました。ところがごく最近、この人類学の「常識」が大きく覆されることになったのです。ドイツの若い研究者たちによって、ネアンデルタール人再検討の機運が高まりました。
 おりしも、DNA技術が発展し、時間が経過したサンプルでも、ごく少量あればDNAを増幅し、解析することが可能となりました。エジプトのミイラのDNAが解析され、王の系譜が明らかにされました。この方法をネアンデルタール人の化石にも応用しようというのです。(中略)DNAの解析結果は驚くべきものでした。ネアンデルタール人と現代のヒトのDNAの違いから、両者は平行して進化してきた異なる種であることが判明したのです。」(福岡伸一「生命の逆襲」朝日新聞出版、2013より引用)
 もう一つ、ユーラシア現代人の核DNAにネアンデルタール人の血が受け継がれている、との研究発表も為されている。河合信和氏は、こう紹介しておられる。
 「しかし10年、ヴィンディヤ・ネアンデルタール人の長大な核DNAが解読されるに及んで、これまでの定説と異なり、両者の間にわずかに交雑があったらしいことが明らかになった。リチャード・グリーン、クラウゼ、マックス・プランク進化人類学研究所を中心とした国際的研究チームが、ネアンデルタールの染色体ゲノムを解読した結果を『サイエンス』10年5月7日号で報告したものだ。」(河合信和「ヒトの進化七〇〇万年史」ちくま新書、2010)
 ともあれ、2016年7月現在においては、これらから、「ネアンデルタール人とホモサピエンスとは、ともにホモ・エレクトゥスから枝別れした別の系統とする説が有力です」(雑誌『Newton(ニュートン)』2010年12月号』の特集「宇宙にまで進出した知的生命体、ホモサピエンス、圧倒的なヒトの頭脳。その仕組みは?」)と言われている。
 それらに加えて、なぜ人類の親戚であるネアンデルタール(原)人は3万~4万年前に地球上にいなくなったのかという疑問については、一説には、「絶滅のおもな原因は食糧難ではないかと考えている。それは、ネアンデルタール人は脂肪を利用して脳に栄養を与える生化学的経路がなかったので、生き抜けなかったかもしれないのだ。」(デイビッド・パール/クリスティン・ロバーグ著、白澤卓二訳『「いつものパンがあなたを殺す」』三笠書房、2015)と。また別の説によると、ネアンデルタール(原)人が、人類の直接の祖先であるホモ・サピエンスに比較して、高度な言葉をうまく操れなかったことが、彼らがこの地上から忽然と姿を消した大きな原因という説があって、これによると言語中枢の発達が、脳の中に外界との関わりを内部モデルとして取り込み、仲間同士で共有していくことが不得手であった、つまりかれらは社会性において劣っていたのでしないか、と結論付けられている。さらにもう一つ付け加えると、かれらは肉食を重んじなかったため、タンパク源を摂取することが乏しく、氷河期を生き延びることができなかったという説も提出されている。要するに、現在はまだ諸説がならび立って、互いに自己主張をしている段階であり、何が彼らの絶滅の決定要因かは、決着がついていないようである。

(続く)

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♦️29『自然と人間の歴史・世界篇』多様な人類種(35~20万年前)

2017-11-11 22:55:30 | Weblog

29『自然と人間の歴史・世界篇』多様な人類種(35~20万年前)

 顧みるに、今からおよそ180万年間前の新生代第四期となる。この頃、地球の気候は、およそ120万年前までが間氷期、それからおよそ80万年前までが氷期、それからおよそ50万年前までが間氷期、それからおよそ30万年間前までが間氷期、およそ30万年前からおよそ20万年までが間氷期であった。この間、人類ということでは、およそ35万年前になると、ネアンデルタール人(正式名称は「ホモ・ネアンデルターレンシス」とデニソワ人(旧人)とが、その前のハイデルベルク人の本流から分岐するにいたる。この二つのタイプは、ヒト属の中に入れられる。互いには、遺伝学的にそんなに離れておらず、「近縁種」であるとのこと。そして、この二つは、ホモ・エレクトゥスの時を遙かに超える規模でアフリカ大陸から出て、ユーラシア大陸のヨーロッパ、そしてアジアなどへと広がっていく。
 一説によれば、33万年前頃、彼ら人類の親戚たちは、アフリカの外に初めて出発した。アフリカから中東に出て、その先からは互いの中でも、ゆく道が分岐していくのであった。
 東の方角、アジアに向かったのが「デニソワ人」であり、西アジアや中央アジア、それからヨーロッパ方面に向かったのが、ホモ・ネアンデルターレンシス(通称は、ネアンデルタール(原)人)であったのではないか。彼らの生息域は、だんだんにひろがっていった。約4万9千年前のスペインの洞窟からもその痕跡が発見されている。そして彼らの多くは、数家族くらいか、それらを束ねての小集団になって動くなりして、彼らは、夜に日を継いでの苦しい暮らしを続けていたのかもしれない。
 ネアンデルタール人たちの暮らしについては、かなりのさころまでわかって来ている。彼らの多くは、洞窟などの自然の懐深くか、それらに寄り添って暮らしていたのではないか。彼らは、石を割ったり削ったりして斧や鏃(やじり)を使って、獲物を捕まえ、それを火とナイフを使って調理し、食していた。また、死を弔い、墓には花が添えられた。化石の調査から、彼らの骨格は、ホモ・サピエンスとそんなに変わらなかった。比較的小柄(いわゆる中肉中背)ながらも、彼ら原人たちは、私たちの祖先よりやや大柄であった。しかも、脳容量が1500立方センチとかなり大きかった。アジアで他の原人の足跡をたどると、約数十年前には「フローレス原人」、「デニソワ原人」、「中国の原人」、それから「アジアで4番目の原人」として注目を浴びている「澎湖原人(ほうこげんじん)」(台湾の地層から発見)もいて、実に多彩であった。
 これらの原人のうち、フローレンス原人は、伸長が1メートルばかりであって、既に火や石器を使っていたらしい。これにまつわる研究史については、2015年の新聞記事に、こんな説明書きがある。
 「インドネシアのフローレンス島で化石が見つかった身長1メートル程度の「フローレンス原人」が、現代人並みの身長のジャワ原人から進化したことを示す有力な証拠を見つけた、と国立科学博物館などのチームが発表した。
 孤立した島で、外敵がいないことなどから大型動物のサイズが劇的に小型化する現象が人類にも作用したと考えられる、という。
 米科学誌プロスワンに19日、論文を発表した。フローレンス原人の化石は2003年、約7万~2万年前の地層から発見された。身長や頭蓋骨のサイズが小型の猿人ほどしかないことから、初期の原人の特徴をそのまま引き継いだ子孫なのか、そこから一度大型化したジャワ原人が進化の過程で小さくなったのか、学説が対立していた。
 国立科博の海部陽介・人類史研究グループ長らは、フローレンス原人の歯の化石を詳細に分析。多様な化石人類や現代人と比較したところ、175万年前より新しい原人、中でもジャワ原人と特徴が似ていて、それより古い原人の特徴は認められないことが分かった。
 「歯は人類の系統進化を探る家で最重要の部位の一つ。ジャワ原人か、その仲間から進化した、という仮説を強く支持する結果だ」としている。(この記事には、吉田晋氏のネームが付されている)」(2015年11月20日付け朝日新聞)

(続く)

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♦️48『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、紀元前2500年~、アッカド、バビロニア王朝時代の文化)

2017-11-11 21:37:40 | Weblog

48『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、紀元前2500年~、アッカド、バビロニア王朝時代の文化)

 元々のメソポタミアでは、太陽神は必ずしも神の中の神ではなかったと言って良い。「メソポタミアでは月神崇拝に押され、太陽神はエジプトと異なって神々の主とはなれなかった」さらにこうある。「シュメルの伝承では太陽神ウトゥは月神ナンナ(アッカ度のシン)の息子でイナンナ女神の双子の兄弟である。」(訳者代表・杉勇『古代オリエント集』筑摩古典文学大系1、1978)とあるからだ。
 そうはいってもアッカド王朝の頃の『ギルガメシュ叙事詩』には、別の名の太陽神としてのシャマシュ神が登場する。
 「彼の涙は滝のように【流れ落ちた。】そしてギルガメシュは天なるシャマシュに【言った。】(八、九行欠落)「私は【天】なるシャマシュに【従って】来た。天なるシャマシュはギルガメシュの祈りを聴いた。そして力強い風がフンババに対して起こった。大なる風、北風、【南風、つむじ風、】嵐の風、凍てつく風、怒【濤】の風、熱風、八つの風が彼に対して起こった。【フンババの】眼に対して打ちあたった。彼は進むことができなかった。もどることもできなかった。こうしてフンババハは降参した。そこでフンババはギルガメシュにむかって言った。「ギルガメシュよ、私を行かせよ。お前はわが【主】となれ。私はお前の家来となる」(同著、149ページ)
ここに偉業を讃えられるギルガメシュ(シュメールの表記ではギシュ・ビル・ガ・メス)
とは、シュメール王名表に記載されている実在の名である。アッカド王朝時代の伝説的な王にして、シュメール王名表によれば、ウルク第1王朝第5代の王にあたる。その没後、早くに神話的人物となり、シュメールの断片的な神話物語が綴られていったのであろう。これをもとにしてアッカド語で編集されたのがこの叙事詩で、主として前8世紀ころにアッシリア語で書かれたニネベ版(約3600行のうち現存する約2000行が当該のものだとされる)により現代に伝わる。

(続く)

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♦️45『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、アッカド王朝)

2017-11-11 21:34:48 | Weblog

45『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、アッカド王朝)

 時代は、やがて続いてアッカド王朝(紀元前2334年頃~同2154年頃)に入っていく。この王朝の担い手としてのアッカド人(セム人の一派)の由来について、小川英雄氏は、こう述べる。
 「しかし、(メソポタミア)の中流域以北の住民は低地よりも複雑な様相を呈していた。そこにはスメル人よりも古い原住民の他に、山地からの移住民やセム人がいた。とりわけ、メソポタミアで諸都市の上に統一権力を置くのに成功したのは、セム人であった。彼らがどこから来たのかについては定説はない。」(小川英雄、前掲書)
このセム人については、現代に受け継がれているも民族名であって、「スメル人のようにただ一度現れて500年の間にすべてを終わったのとは異なり、全オリエントに、さまざまな時期に、様々な名称(アッカド、アッシリア、バビロニア、カナアン、アラム、ヘブライ、フェニキア、アラビア、エティオピア)の下に現れ、現代のアラブ人やユダヤ人にまで至った同一系統の存続の総称である」(同)ことに、留意されたい。
 ところで、この王朝下の紀元前2000年頃のものであろうか、出土した円筒印章の印影(ニップル出土粘土板にみえる印章象)に、当時の農業の様子が刻まれている。前掲書では、こう説明しておられる。
 「(中略)三人が条播作業に従事していた。一人の男が二頭のオス牛につながれた○(すき)をあやつり、べつの男が播種器をとおして穀物種子を地面の条溝に落としている。あと一人が突棒(ないし鞭)を手にして、役牛の前進、反転を監督していた。
 ニップル印影では、右手で種子を条播器にこぼしている男は、ある種の入れ物を首から下げていて、それに左手を添えている。二〇世紀初頭に印影が公刊されて以来、これは種子袋と説明されてきた。けれども私は、粘土板記録を解析することによって、これはアシ製の箱だと考えている。」(同著)

(続く)

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