542『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ベトナム)
中国の三国時代の一つの国、呉(ご、中国読みでウー)は、南の広東(カントン)、海南島、ベトナムの地方に進出した。それから数百年後の10世紀には、ベトナムの独立があった。その時の模様についての尾崎康氏の論考には、こうある。
「長く交州として中国の直接支配下にあったトンキン平野一帯は、唐末五代の争乱で中国の勢力が弱まった機会に、ようやくヴェトナム人による独立の動きが活発になった。10世紀には十国の一の番○(広東)に拠る南漢の瀬力をはねのけて、呉(939)、丁(でいん、968)、黎(れ、980)の各氏が相次いで王位に立ち、黎朝のときトンキン平野を統一し、宋の侵攻も撃退して完全に中国から独立した。
その後、李朝(1010~1225)になって安定した王朝の時代に入り、科挙制を移入するなど中国文明を引き続き受容し、占城・宋・真○と抗争しつつも、ほぼトンキン平野からユエに領域を保った。次の陳朝(1225~1413)は、再度にわたる蒙古の猛攻に堪えて民族の毒釣りを守った。」(伊藤清司・尾崎康「東洋史」)
それからさらに千年近くが経過した1802年、ベトナム最後の王朝、グエン(○)朝(~1945)が建国される。都は、現在のベトナム中部のフ、フォー川を挟んでの新市街の対岸に、ユネシコの世界遺産に指定(1993年)された旧市街が広がる。ベトナム統一にフランスの力を借りたのが影響して、1885年にはフランスの植民地に組み入れられてしまう。1940年、フランス統治下のベトナムに進出してきたのが日本軍であり、ベトナムを占領下に置くのであった。1945年8月19日、連合国が日本の無条件降伏を受け、ホーチミンがベトナムの独立を宣言し、同9月2日にはベトナム民主共和国が独立宣言を行い、北の本拠地ハノイで武装蜂起する。
一方、フランス軍はこの独立を認めない。同年9月になり、フランスはベトナム南部に侵略を開始する。これにはイギリスの支援があった。彼らは9月23日にはサイゴンを占領する。このため、翌1946年になると、北のベトナム政府はフランスに対し武器をとり、第一次インドシナ戦争が勃発する。この年1946年3月18日には、フランス軍は北の本拠ハノイへ進駐し、続いて同年6月1日には南部ベトナム、その中でも都市部を支配下におくとともに、コーチシナ自治共和国という傀儡(かいらい)政府を樹立する。
フランスは軍事力の優位を背景にして、主要な港湾を固めることで、新生ベトナムの勢力地域を経済封鎖することに血道を上げる。1946年11月20日になるとフランス軍はハイフォンでベトミンを艦砲射撃で攻撃し約6千人のベトナム人の命を奪う。同年中には北緯15度以南のベトナムを支配下に収める。これに対して同年12月19日北のベトナム政府は全国レベルでで反撃を開始する。
その後の北の政府とフランスとの戦闘は、互いに決定打なく長期化していく。しかし、補給の困難なフランス軍がじりじり消耗し、後退を余儀なくされる。1950年になると、東西冷戦化の中、中国とソ連が北ベトナムを承認する。一方、アメリカは、フランスの傀儡(かいらい)政権である南ベトナム政権を後押しする。
1949年7月、バオ・ダイ元首が南部にベトナム国政府の樹立を宣言する。1950年10月、アメリカの軍事援助顧問団がサイゴンに設置される。この経緯から、南の政権はアメリカの肝いりの政権である、と言わねばならない。1951年2月、ベトナム共産党が第二回党大会を開いてベトナム労働党と改名する。1954年、戦略的要地ディエン・ビエン・フーが陥落し、フランスは大敗を喫す。1954年5月のジュネーブ会議で、ベトナムの地は、北緯17度線を軍事境界線に二つの国家に分断される。今度、南の傀儡政権を援助したのは、フランスに替わったアメリカであった。1955年、南部にベトナム共和国が樹立され、ゴー・ディン・ディエム大統領が就任する。
1959年1月、「第15号決議」で南ベトナムを武力解放をめざすと発表する。1960年12月には、南ベトナムに「南ベトナム民族解放戦線」が結成される。この組織は、アメリカと南ベトナムの傀儡政府に宣戦を布告し、ここに第二次インドシナ戦争が始まる。
(続く)
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