♦️363の7『自然と人間の歴史・世界篇』物理学とその思想(ド・ブローイの因果的確定不可能論)

2019-03-28 09:55:22 | Weblog
363の7『自然と人間の歴史・世界篇』物理学とその思想(ド・ブローイの因果的確定不可能論)
 
 さて、物事をだんだんに突き進めていくと、いったい何が見えてくるのだろうか。そのことを真摯に考えさせてくれるものに、因果の連鎖というものがあろう。それによると、いろいろな手段や方法を用いて思索というか、探求というか、努力によりだんだんに手繰り寄せていくうちに、その見極めようとする事象なりが、観察者にはっきり見えてくるというものだろう。
 しかし、物理学者のド・ブローイは、このような類の考え方に、直ちに反論というわけではないか、大いなる疑問を呈している。その中でも、興味深い一説には、こうある。
 「古典物理学は、観測する「主観」とは全く独立に記述することの出来る客観的実在が存在することを本質的に予想している。ボーアが鋭く観察している通り、古典物理学が厳密な科学という称号を要求し得た理由は正にここにある。ところが現代の微視的物理学においては観察され測定される現象を観察法及び測定法からきっぱりと離すことが出来なくなっている。(中略)
 すなわち、古典物理学は、観測する「主体」からは全く独立な「外界」と呼ばれる客観的世界の一部分と、この外界を主体がそれに変更を加えずに量的に認識しかつ研究する際に用いる測定器械や感覚器官のような客観的世界の別の部分との間に、人為的な切れ目をつけるに反して、量子力学は、そういう切れ目の性質を指摘して、我々が観測において用いる手段と全く独立に物理的実在を記述することが、厳密な意味においては不可能だということを証明した。」(ド・ブローイ著、本田喜代治・平岡昇による訳「物質と光」岩波文庫、1933)
 このような言い方には、人間の力では太刀打ちできないような、超自然的なものにぶち当たるというのではないところに、科学者らしい態度が覗えよう。ありていにいうと、ここにおいては「神」などというものを持ち出して述べていないので、かえってわかりやすい。一つには、人間の知の力がまだそこまで到達していないというという理解があってよいのだろう。言い換えると、それだからこそ、人間にとっての認識の現段階での真実味、有り難さが増してくるのではないだろうか。

(続く)

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